「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ・・・・・・」

ヒロシマに原爆投下

昭和20年8月6日、午前8時15分、B29のエノラ・ゲイ号から投下。今日まで死者の列は続いていますので正確な数は分かりません。当時筆者は広島のすぐ隣の山口県東部に住んでいました。母の話によると「黒い雲が出たよ!」と言って家の中に飛び込んできたそうです。記録によると、その日の広島の朝は非常に蒸し暑く、雲ひとつない快晴だったそうです。原爆資料館に行ってみると、どんなに悲惨なものであったかが分かります。

ソ連参戦命令を出す

ソ連の満州進攻は、準備の都合上、はじめは8月下旬の予定でしたが、アメリカの原爆の進捗状況に合わせて次々に繰り上げられていきましたが、ヒロシマへの投下を見て8月9日攻撃開始の命令が出されました。また、スターリンはクレムリンに原子物理学者5人を呼び、「費用はいくらかかってもかまわない、できるだけ早くアメリカに追いつかなくてはならない、全力を上げてやりたまえ」と厳命しました。そして、粛清の鬼と呼ばれる秘密警察長官ベリアを原爆製造研究所の総指揮官に命じました。こうして米ソの核兵器競争がはじまった、と半藤は書いています。

ベリアはスターリン政権下で、KGBの責任者として知識人を粛清し、300万人もの人々を収容所に送り、スターリン死後の一時期その後継者とみなされたこともあるようです。フルシチョフとの権力闘争に敗れ、ソ連内部でも、犯罪者・裏切り者の烙印を押されたようです。

「もはや戦争継続は不可能」

ソ連仲介による戦争の終結のみを頭に描いてきた日本政府と軍部は、翌日トルーマンの「日本が降伏に応じない限り、さらにほかの都市にも投下する」という声明に接し、1日も早く戦争を終結しなければならないという焦りを感じました。しかしまだソ連仲介を期待していて7日はどうという動きはなく暮れていった、と半藤は言っています。

8日天皇が木戸内大臣を通じて、降伏決定の意思を鈴木首相に伝えました。ところが8日には軍部の都合により最高戦争指導者会議が開けず、9日に延期になりました。そうこうしているうちに時計の針が9日の午前零時を過ぎた途端、ソ連が満州の国境線を突き破って侵入してきました。前日の晩に一応宣戦布告はあったようです。

午前十時三十分に会議がはじまり、鈴木首相が「戦争を終結させなくてはならない」と始めて軍部の前で明言しました。ポツダム宣言受託そのもの流れはスムースに決まり、「どのように受託するか」が会議のテーマになった、と半藤は書いています。