「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ・・・・・・」

ここから先は、当時の日本の「意思決定」過程を浮かび上がらせるように、少々詳しく書きます。

10日の朝があけると同時に、外務省は、中立国であったスイスとスウェーデン駐在の日本大使を通して「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに(成文)」ポツダム宣言を受諾する、という電報を打ち、連合国に伝えました。つまり天皇制の護持を保証してもらいたいという内容でした。

受け取ったアメリカの反応は様々だったようです。「すぐにOKして早く日本を降伏に導いたほうがいい(本土決戦になればアメリカ側の損失も莫大になる)」「日本人は天皇が好きなんだな!」「これを受け入れれば無条件降伏にならない(強硬論)」等々。

イギリスと中国は比較的早く反応して、どちらかといえばこれ以上の流血の惨事より日本の条件をのんだほうがいいのでは、というものでした。ソ連はなかなか結論が出ず、アメリカ内部の議論もながびき、ようやく日本時間の8月12日の夜、連合国側からの回答が決まり、サンフランシスコ放送を通して日本に伝えました。

「日本国の最終的の政治形態は、ポツダム宣言に遵い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす(定訳)」「天皇および日本国政府の国家統治の権限は・・・・・・連合国最高司令官に Subject to するものとす」という内容でした。この「Subject to」を外務省は「制限下におかる」と訳し、軍部はそれを認めず「隷属する」と解釈し(英和辞書には「・・・を条件(前提)」として」という訳が載っています)、また揉めます。当時の政治のシステムとしては閣議で一致しないことは動きません。議論を重ねれば重ねるほどみなが自信をなくしてしまう、と半藤は書いています。しかし、追い詰められた日本帝国は誰かが何かを決断しなければどうにもならない段階にさしかかっていたのです。