前に本ブログで半藤一利の「昭和史」をご紹介したことがありますが、第二次世界大戦は、覇権国アメリカとの戦闘に敗れた日本にとって、全く「アホな戦い」という位置付けでした。

今日、開戦時の鉄鋼の生産量や石油の産出量などを比較すると大変大きな差があって、常識的にはとても挑戦できるような相手ではありませんでした。それでも戦争に突入していったのには、それなりの背景・理由があるハズだと思っていました。これに答える一つの研究成果を学士会会報884号に見つけました(筒井清忠帝京大学文学部教授による講演の要旨から)。

日露戦争(明治37-38)は、日本は日英同盟を結んでいた上にアメリカ(当時ルーズベルト大統領)の応援があり勝利しました。当時世界を支配していたのは米英であり、明治・大正期の日本のエリート層の暗黙の前提はその米英と一緒にやっていけばよいというものでした。強いところと組むというのは国を守るためには常識でしょうから(いま普天間基地の移動が大きな政治問題となっていますが、日米同盟により強いところと組むという基本姿勢が必ずしも前提になってない言動が政府・与党にあるように見受けられます。日本の国を守るということがどういうことなのか、何をしなければならないのかを国民に明らかにし、コンセンサスを得るべきです。目先の経済対策にばかり目が行っているようで心配です)、極めて健全な大局観といえます。それを踏み外して米英と戦うことになったのは何故なのか?これがここでの最大のポイントです。

「昭和超国家主義の発生」

第一次世界大戦終了時(1918年:大正7年)の頃は、日本では米騒動が起きるなど、社会が非常に混乱した状況にありました。1918年は今から数えて92年前ですから、我々の親たちが生まれた頃です。

猶存社:1919(大正8年)満川亀太郎・大川周明・北一輝らが結成した国家主義団体。北は「日本改造法案大綱」を執筆。国家改造(天皇の大権発動により日本社会を非常に平等な社会にしていくというもの)とアジア解放を唱えましたが北と大川の対立が原因で1923年解散。猶存社は昭和期の超国家主義の源流となりました。各大学や高等学校にこの猶存社の支部が続々と出来て同調者が増加していきました。

軍、特に陸軍の青年将校らが北の思想に大きな影響を受けました。その背景には、第一次世界大戦が終了すると、第一次世界大戦の悲惨さから世界的に平和主義のムードが非常に高まり、ワシントン軍縮条約が締結され、日本でも大規模な陸軍軍縮が二回行われ、3400人の将校が突然首切りに会いました。軍人受難時代になったのです。若い青年将校たちは「自分らの存在自体が根本的に国民に受け入れられないのではないか」と悩み始め、自分たちの精神的支柱として北たちの「国家改造とアジア解放思想」に飛びついたのです。

「5・15事件(1932年:昭和7年)への道」

1924年(大正13年)加藤高明内閣が成立。総選挙に勝利して政権を獲得した初の内閣です。翌年男子の普通選挙制度が導入されました。ラジオ放送も開始されました。この2つは、政治が大衆の世論を非常に気にしなければならなくなったことに結びつきました。

1927年(昭和2年)民政党と政友会という日本で最初の本格的二大政党政治体制が確立しました。普通選挙制度導入に伴い選挙に金がかかるようになり疑獄事件が頻発。当時は、現在とは全く異なり、政権与党になると官僚を入れ替えることもできたので「官僚の政党化」現象も起こりました(例えば知事の大幅入れ替え⇒警察署長の入れ替え⇒派出所の巡査=個別訪問実施者=入れ替え等)。このような背景から、政党政治に対する国民的不満感、不信感が非常に高まっているところに1929に年世界恐慌が勃発。近代日本史上最大の不景気、デフレ、失業者の増加、就職難という時代になりました。

一方国際関係では、1924年アメリカで日本人の移民を禁止する「排日移民法」が決まりました。日本国内ではこれに世論が沸騰し、太平洋戦争の原因の一つになりました(『昭和天皇独白録』)。1919年ソ連は世界革命の本部として「コミンテルン」を結成、その日本支部として日本共産党ができました。中国では蒋介石が南から北に向かって中国を統一していきましたが、それに伴い日本の権益とあちこちでぶつかり、特に満州では日本の権益が危ないという風に受け止められ日中関係は非常に険悪になり、結局満州事変(1931年:昭和6年)が起きていくことになります。

こういう状況の中で猶存社につながる人々はどういう活動を行ったのでしょうか。
1931年3月、桜会(参謀本部第二部の橋本欣五郎というトルコ駐在武官をしていた人が結成。思想的リーダーが大川)の幹部将校に大川周明や宇垣一成陸相の陸軍首脳部が宇垣内閣樹立を企てたクーデター計画が未遂に終わりました(三月事件)。

1931年8月郷詩会という会合が開かれ北のグループや、悲惨な状況にあった農村や下町の青年たちが日蓮宗の井上日召のもとに結集した「血盟団」、農村青年のグループ「愛郷塾」などが集まり、大陸の関東軍が満州で事を起こした時には国内での変革運動を実施するための準備を始めました。それが実行に移されかけたのが「十月事件」です。

1932年2月から3月にかけて血盟団の人々が「血盟団事件」というテロ事件を起こしました。そして1932年(昭和7年)5月15日、海軍の青年将校と愛郷塾を中心として犬養毅首相を暗殺(5・15事件)。郷詩会の会合参加者のうち、民間の青年と海軍の青年将校らは、これでエネルギーを大体使い果たした状況になりますが、北の影響下にある陸軍の青年将校グループは前年暮れに陸軍大臣になった荒木貞夫の力で国内の疲弊した状況は改革されるのではないかと期待して動きませんでした。

「昭和陸軍の底流」

荒木陸相に至る陸軍内部の流れはどうだったのでしょうか。
明治維新政府は、長州閥と薩摩閥が中心でしたが、薩摩はどちらかといえば海軍に力を注ぎ、陸軍は長州中心に形成されていきました。大河ドラマ「竜馬伝」でも幕末薩摩が軍艦を長州に届けましたね。

ただ、ある程度は薩摩の人々も残り、九州出身者を集めて結集していったので、陸軍は長州閥と九州閥が対抗する二代派閥で明治から大正にかけて進んで行きました。ただし、あくまで基本は長州閥を中心に、山形有朋、寺内正毅、田中義一、宇垣一成を中心に進んでいったのです(宇垣は岡山出身でしたが長州閥を受け継ぎました)。

1921年(大正10年)陸士16期の人たちがドイツに集まって、陸軍立て直しの盟約を結びますが東条英機も参加しています。この人々が最終的に「一夕会(いっせきかい)」(陸士14期から25期の人々が参加)という団体を作って昭和4年に「一夕会決議」を出します。内容は「陸軍人事を刷新し、諸政策を強く進める」「満蒙問題の解決」「荒木、真崎、林の三将軍を盛り立てながら陸軍を再建」。長州閥から宇垣閥の流れではそれが実行できないとして、必然的に対立軸の九州閥の流れにつながっていきました。

昭和六年十二月に九州閥の荒木陸軍大臣が登場した時には、北グループの青年将校グループ、九州閥の上級将校、一夕会系の中堅幕僚、青年将校グループの三者がいずれも荒木に非常に期待しました。ところが、この後内部対立が起き始め、かの有名な「皇道派」「統制派」の対立になっていきます。

荒木陸相は、演説はうまかったのですが、実務能力はほとんどなく「荒木はだめだ」という空気が、この人々の間で非常に強くなっていきました。そこで荒木の後に林千十郎という自分たちの言うことを聞いてくれそうな人をつけましたが、この林という人は非常に目先だけが利く人でしたので、荒木や真崎たちの評判が宮中を中心に非常に悪いと知り、彼らの排撃活動を始めます。その時、それを一緒にやったのが永田鉄山らです。東条英機のグループも荒木を見切りました。ところが青年将校たちは、あくまで荒木、真崎らを押し立てて陸軍と国政の改革を行おうとしました。

こうして前者が「統制派」、後者が「皇道派」として対立していくことになります。「皇道派」と「統制派」の対立が激化する中から「二・二六事件」が起きることになります。

「二・二六事件」

「二・二六事件」というクーデターの直接的な契機は何だったのでしょうか。

大きかったのは皇道派の相沢中佐が統制派の永田中将を切った所謂「相沢事件」でした。相沢中佐が身を挺してあのようなことをしたのに、自分たち若い者が何もしないのは申し訳ないという気持ちを非常に強くさせたのです。

これは心情的なものですが、一番重要なことは「第一師団という東京にあった青年将校運動の中心人物が多くいた師団が、翌年春に満州派遣されることが昭和十年の暮れごろに発表されたということです。満州に派遣され戦闘で死ぬぐらいなら、いっそのこと国内クーデターをやろうという気持ちが強くなっていったのです。

一般的に言えば、クーデターは弱い立場にある者が行うものですから、皇道派の流れの青年将校グループが追いつめられていたことは容易に想像できます。ですから一挙に事態挽回を試みたのが「二・二六事件」だとも言えます。

「二・二六事件」は「現内閣の辞職を一切許さない」ことを天皇が守り通し、失敗に終わります(木戸幸一という非常に有能な内大臣秘書官長の進言だと言われています)。

「太平洋戦争への道」
昭和の超国家主義運動は、アジア主義的・平等主義的性格を非常に強く持っていましたが、この平等主義的な発想は「二・二六事件」の失敗後、なお昭和十年代の「革新官僚」と言われる官僚たちに受け継がれていきました。「自作農創設」「国民健康保険」を作るなど、彼らによって平等主義的な施策が色々と実現していきます。従って、青年将校たち自身は政治的に敗北しましたが、彼らの主張は戦時中に部分的に実現され、さらに戦後財閥解体や農地解放という平等主義的な施策になって実現していった、すなわち戦中・戦後を通じて社会の平準化は進行していった、と言えるかもしれません。

そして、こうした平等主義的志向の前では、親英米派的志向は特権的な旧支配体制を維持するためのものだと見られ影響力を後退させざるを得ませんでした。「英米についていれば一番強いのだから安心だ」などという主張は「植民地支配にあえぐアジアの解放を」「天皇周辺の親英米派的特権階級打倒」という主張の前では色あせていったのです。こうして、その後紆余曲折はあるものの「アホな戦い」に突入していったのです。

日本は戦後驚異的な経済発展を遂げましたが、富の分配については超社会主義的だと言われました。日本人の平等主義的志向は、このように昭和初期の時代にまで源流を遡ることができ、ある意味で日本人のDNAなのでしょうか。著者が40年以上も前にアメリカで始めて生活した時に感じた違和感が何となく理解できた感じがしています。

今日本は大変な閉そく感に包まれていますが、その大きな原因の一つに「国の形」が定まっていないことが挙げられるでしょう。民主党にも党の綱領というものないと新聞で読んだ記憶があります。政権交代を目指しただけの寄せ集めの政治団体から一日も早く脱却して国の進むべき道のコンセンサスを取りつけることを目指すべきです。残された時間は極めて短いように思います。