13世紀の初め,チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがる強大なモンゴル帝国を打ち立てました。その孫,5代皇帝フビライは,国名を元に新ため,日本に使者を送り,通交を求めました。しかし,鎌倉幕府(1192年設立)がこれに応じなかったため,フビライは,1274年日本に攻め込み,博多湾西部に上陸,九州の御家人(武士)たちと激しい戦いを繰り広げました。この戦いで日本側は苦戦し,博多の町は大きな被害を受けました(「文永の役」)。
鎌倉幕府は,元の攻撃に備えて,九州各地の御家人に命じて,1276年3月から約半年間という急ピッチで,博多湾の海岸沿いに約20kmにわたる石垣(元寇防塁)を築かせました(高さ約3メートル)。
1281年,元は再び日本に攻めてきました(「弘安の役」)。しかし,「元寇防塁」に阻まれ、長引く戦いの最中,暴風雨により,元の軍船の多くが沈没や損壊するなど大損害を被ったため退散したと言われています。

蒙古襲来を防いだ当時の「御家人」は江戸時代のそれとは異なり、「御家人」となるためには,根本私領(御家人が開発以来代々相伝してきた私領)を開発して保有している者が,名簿 (みょうぶ) を将軍にささげ,見参 (げざん) と称して将軍の前に出て御目見 (おめみえ) し,将軍に忠誠を誓い,将軍からその所領,所職の保障を示す所領安堵 (あんど) の下文 (くだしぶみ) をもらわねばならなかったのです。即ち彼らは「土地持ち」の「金持ち」だったのです。

幕府は元軍を退けたものの、戦費を使った中下層の武士の勢力が後退。この動きの中で、後醍醐天皇が新興の有力な武士をみかたにつけて、1333年に鎌倉幕府を滅ぼしました。「建武の新政」とよばれる天皇親政が行われるようになりましたが、天皇が並外れた贅沢をしたり、公家を優遇する政策をとったため、それに不満をもつ有力な武士たちが足利尊氏のもとにまとまり、尊氏は後醍醐天皇を追って京都を制圧し1338年に室町幕府を起こしました。次の天皇親政は明治時代まで待たねばなりませんでした。