日本語の「ガーゼ」はドイツ語の「Gaze」が語源だと思われます。ネット上の無料翻訳で発音させてみましたが「ガザ」に聞こえます。英語では「gauze」で発音は[go:z]。語源は辞書によれば「フランス語のgaze(町名Gaza)」又は「アラビア語で繭綿」。ガザは現在のパレスチナ自治区の中にあります。ガザ地区は綿花栽培が盛んなので「ガーゼ」の由来はこの地名だとする説は極めて有力に思われます。

ガザと言えば映画「サムソンとデリラ」で有名な怪力サムソンが死んだところでもあります。旧約聖書の土師記(はじき)にも登場します。

士師記に出てくるサムソンとデリラ:
サムソンとはどのような人だったか。一言で言えば「野人」です。この「野人」には二つの意味があります。一つは、彼がとてつもない怪力の持ち主だったということ。若い獅子を素手で引き裂いたとか、ロバのあご骨で千人の敵を打ち殺したとか、ガザの町の門の扉と門柱を引き抜いて、それを山の上まで運び上げたということが語られています。サムソンは、人間の常識をはるかに超えた力を持った英雄だったのです。「野人」のもう一つの意味は、彼が組織に組み込まれてしまうことのない、一匹狼の英雄だったということです。彼は軍勢を率いて戦ったことはありません。彼がペリシテ人(古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植した民族群。イスラエルの敵)と戦ったのは全て単独。ロバのあご骨でペリシテ人千人を打ち殺した(ペリシテ人に対する1回目の復讐)のも、全く彼一人でしたこと。彼は誰の部下にもならず、手下を持つこともなく、一人で、自由奔放に生きていたのです。 このような野人サムソンが、単なる暴れ者ではなくて士師の一人として位置づけられています。士師とは、イスラエルが王国となる前に、国が敵に圧迫され、危機に陥った時に、敵と戦ってイスラエルの人々を守った英雄たちです。サムソンが戦った敵はペリシテ人ですが、彼らがこの時代、イスラエルの民を支配し、苦しめていたのです。そのペリシテ人を相手にさんざん暴れ回ったサムソンは、イスラエルの民をペリシテ人から解放する戦いの先駆者として覚えられ、士師の一人として位置づけられたのです。

サムソンのもう一つの特徴は、惚れた女に弱い、ということでした。彼は何人かの女性を愛しました。「英雄色を好む」とはサムソンのためにある言葉です。そして彼は、自分の愛した女性に繰り返し裏切られています。彼はペリシテ人の娘を愛して、両親の反対を押し切って結婚しました。その披露宴で彼は、ペリシテ人の客と、麻の衣三十着、着替えの衣三十着をかけて謎を出しました。ペリシテ人たちはその謎の答えが分からなかったので、サムソンの妻にそれを聞き出すように頼みました。妻はサムソンに「あなたが私を愛しているなら、答えを教えてちょうだい」と泣きつきました。彼女がしつこく泣いてすがるので、ついにサムソンは謎の答えを教えてしまいます。それでサムソンは賭けに負けてしまったのです。このエピソードが語っているのは、サムソンが、力はめっぽう強いが惚れた女に泣きつかれると嫌と言えず、大事な秘密をも漏らしてしまう、そしてその女に裏切られてしまうという、女性に対する脇の甘さです。

デリラこそ、サムソンが最も愛した女であり、彼を滅びへと陥れた人でした。彼女もやはりペリシテ人でした。そのデリラをサムソンが愛していることを知ったペリシテの領主たちは、彼女を通して彼の怪力の秘密を突き止め、それを抑える方法を知ろうとしたのです。このことは、衣を賭けての謎の答えなどとは次元の違う、サムソンにとって命がかかっている、また彼の士師としての存在そのものに関わる根本的な事柄です。彼からあの怪力が失われたら、何も残らないのです。そういう、彼の人生における最も大事な、根本的な秘密を、デリラは聞き出そうとするのです。そのような重大な秘密ですから、サムソンとて簡単にそれを明かすことはありません。「乾いていない新しい弓弦七本で縛れば自分の力は失われる」とか、「まだ一度も使ったことのない新しい縄で縛れば弱くなる」などと嘘を言ってごまかしたのです。しかしデリラは、彼が本当のことを言っているのかどうかを慎重に確かめながら事を進めています。そして彼が嘘をついたことが分かると、彼女は決まってこう言って責めたのです。「あなたは私を侮っている」。つまり、あなたは私のことを大切にしていない、つまり本当に愛してくれていない、と拗ねて見せたのです。そういうことが繰り返されていき、三度目にサムソンが言ったのは「わたしの髪の毛七房を機の縦糸と共に織り込めばいいのだ」ということでした。これも本当のことではありません。しかし秘密に少し近づいてきているとは言えます。髪の毛のことに触れているからです。彼の怪力の秘密は髪の毛と関係があったのです。デリラの揺さぶりによってサムソンが次第に動揺してきていることが感じられます。この三度目の答えも嘘だったことが分かった時、デリラはこう言って彼を責めました。「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった」。「わたしを愛しているなんてよく言えるわね。三度も騙しておいて。わたしのことなんかこれっぽっちも考えてくれていない証拠じゃないの」。サムソンならずとも、このように言われることに男は弱い。「来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり」とあります。それで彼はついに、一番大事な、怪力の秘密を打ち明けてしまったのです。  

ところで、彼はこのようなデリラの問い、彼の愛を試すような揺さぶりに対してどうすべきだったのでしょうか。客観的に考えて言えることは、そもそもこのような問いに対しては最初からはっきりと、「このことは自分と神さまとの間の、決して人に言ってはならない秘密なのだ。だから愛するお前にも言うことはできない。お前も、私を愛しているなら二度とそれを聞くな」と言うべきだったということでしょう。それを、適当にごまかして嘘をついてしまったのが間違いの始まりだったのです。とは言え私たちも、現実の具体的な状況の中で、本当に言うべきことをはっきり言うことができず、まさにサムソンがしたように適当にごまかしてしまって、その結果泥沼にはまり込んでいく、ということが多いのではないでしょうか。そこには、人間が共通して持っている弱さがあると言えるでしょう。  

デリラは、サムソンが今度こそ本当のことを言ったと見て取りました。デリラのサムソンに対する観察力はしたたかなものです。サムソンはデリラの掌中で踊らされている、という感じです。男と女の関係というのは基本的にそういうものだという人もいますが、それはともかく、彼女はサムソンを膝枕で眠らせ、眠っている間にその髪の毛を剃ってしまいました。髪の毛を失ったサムソンはその怪力を失い、ペリシテ人に捕えられ、目をえぐられ、青銅の足かせをはめられ、ガザの牢獄で石臼を引かされる身となってしまったのです。

サムソンの怪力の秘密 は、彼が生まれる前からナジル人(聖書に登場する、自ら志願して、あるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者のこと)として神にささげられた者であることによって、神から与えられた賜物でした。子どもがなかったサムソンの両親は、神に祈り、もし子どもを授けて下さるなら、その子を神さまのものとしてささげます、と誓ったのです。つまりサムソンは生まれながらのナジル人でした。彼の怪力はそのことによって与えられていたものでした。神にささげられ、神のものとして生きているサムソンに神が与えて下さった賜物だったのです。あの怪力こそ、彼がナジル人、神にささげられ聖別された、神のものとして生きていることの印だったのです。それを失うことは、神との関係を失うことであり、神のものでなくなることを意味します。神との関係を失い、神のものでなくなるなら、サムソンでなくても、そこには何も残らないのです。このナジル人であることの印が、髪の毛を切らないということでした。ですから彼の怪力は髪の毛に宿っていたのではありません。髪の毛のあるなしで力が出るか出ないかが決まっていたのではないのです。問題は、彼がナジル人として、つまり神にささげられた者として生きているかどうかです。彼の怪力はそのことにかかっていたのです。ですから彼が怪力を失ったのは、根本的には、髪の毛を剃られてしまったからではなくて、デリラにナジル人であるがゆえの自分の力の秘密を教えてしまったことによってだったのです。サムソンは、デリラの愛を自分に繋ぎ止めておこうとして、主なる神との約束を、神との関係をないがしろにしてしまったのです。その結果、自分の人生の土台である、神にささげられた者としての、神との関係を失い、神の賜物だった力を失い、そしてつなぎ止めようとしたデリラをも失い、目を失い、まさに全てを失ってしまったのです。

こうしてサムソンは捕えられ、目をえぐられて盲目となり、最も惨めな奴隷となりました。ガザの牢獄の中で、目を失った暗黒の世界の中で、足かせをはめられ、鞭打たれながら石臼を引かされつつ、彼は何を思っていたのでしょうか。「しかし、彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた」とあります。これは、彼の怪力が次第に回復していったことを暗示している文章だと言うことができます。しかし彼の怪力は髪の毛に宿っていたのではありません。髪の毛がまた伸びれば怪力が回復する、というような単純なことではないのです。大切なのはサムソンと神との関係の回復です。サムソンは、全てを失い、光さえも失った牢獄の中で、自分がかつて主なる神のもの、神にささげられた者だったこと、それによってあの怪力を神の賜物として与えられていたのだということを、初めて本当に知り、自覚したのではないでしょうか。そして自分がその神との関係を、神にささげられた者としての人生を、デリラへの愛のゆえに、いや正しくは愛と言うよりも執着、彼女を自分のもとになぎ止めておきたいという欲望のゆえに売り渡してしまったこと、神との関係よりも人間との関係を、女性への欲望を第一としたために、人生の土台だったかけがえのないものを、それに伴って神が与えて下さっていた恵みの賜物を失ってしまったことを、深い後悔と共に知ったのです。ナジル人として神との関係に生きており、賜物である怪力を与えられていた時には分からなかったこと、見えなかったことが、神との関係を失い、怪力を失い、全てを失った今、分かるようになった、見えるようになったのです。彼はそのことによって深い絶望の淵に沈みました。その絶望の中で彼は、失った主なる神との関係をもう一度得たい、もう一度神のものとされて生きたい、と切に願ったことでしょう。そこに、彼の悔い改めがあります。主なる神のもとに立ち帰ろうとする思いがあります。「彼の髪の毛はまた伸び始めた」という言葉は、サムソンの心の中の悔い改めの思いを言い表していると言うことができると思うのです。

ペリシテ人たちは、サムソンの力を奪い、捕えたことを祝い、彼らの神ダゴンの神殿において盛大な祭を催しました。そこに、捕えられ、目をえぐられて奴隷となったサムソンを引き出し、見せ物としようとしたのです。サムソンはその辱めの中で、神殿を支えている柱を探り当てます。そして主なる神に祈ったのです。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください」。「わたしを思い起こしてください」、これがサムソンの祈りです。神に見捨てられてしまった絶望の中に今彼はいます。それは自分の罪のゆえです。彼自身が神との関係をないがしろにし、欲望のゆえに神を裏切ったのです。その罪の結果である絶望の底から、「わたしを思い起こしてください」と彼は叫びます。神がもう一度自分を覚え、関係を結んで下さることを、そして「今一度だけわたしに力を与え」て下さることを心から願ったのです。彼に与えられていた力は、神が彼を思い起こし、関係を結んで下さることによってこそ戻って来ます。髪の毛が伸びたからまた力が出る、ということではないのです。神が彼のことを思い起こして下さること、罪によって失われた関係を神が再び結んで下さること、それがサムソンの救いであり、その救いにおいてあの怪力の賜物が戻って来るのです。 サムソンがこのように祈り、建物を支えている真ん中の二本の柱を渾身の力を込めて押したところ、ダゴンの神殿は崩れ落ち、そこに集っていた数千人のペリシテ人たちと共に、サムソンもその生涯を閉じました。しかしその生涯の最後に、主なる神が彼を再び顧みて下さり、ご自分のものとして下さったのです。