私のブログ「宣教師達の同時通訳能力」の中で、娘の会の「エンカウンター」で英語の講演をしたことに触れた。その時の「題」は “Living Together With Different Religions and Cultures” であった。妻は結婚する前からカトリックの信者だったから(私はカトリック信者ではない)、我々夫婦はどのように折り合いをつけて今日まで生活をしてきているのか?その体験談を話して欲しいということだったのである。講演の準備の段階で、私自身の「宗教的なバックグラウンド」を整理してみた。西村家は代々「浄土真宗」なので、「ボーン・カトリック」に対比して言えば、私は「ボーン・ブデイスト」ということになる。家の中には「仏間」があったから、欧米流に言えば「プライベート・チャーチ」があったことになる。おばあちゃんは、毎朝、仏壇と神棚にお供えをしていたように記憶する。おばあちゃんの一番の記憶は「悪いことをしてはいかんよ。おてんとうさまは何でも見ているのよ」とよく言われたことである。中学・高校は「浄土宗」の学校へ行った。毎朝全校朝礼があり「明照殿」に向かって拝礼し、昼食の時は「本当に生きんがために、今この食を頂きます。与えられたる天地の恵みを感謝いたします」と食事訓を言った(欧米流で言えば、「お祈り」をしてから食事)。全校行事の時には、法然上人の「月影の至らぬ里はなけれども、眺むる人の心にぞ住む(澄む)」を歌った。講演の時、この「おてんとうさまは何でも見ているのよ」をどう表現するべきかを考えた末、文字通りの英訳をし、その意味は聖書の中の「あなたの髪は数えられている」と同じであると説明したが、出席者全員微笑んで頷いていた。
オー・ヘンリーの短編「賢者の贈りもの(The Gift of the Magi)」(Magi はイエスが誕生した時に贈り物を持って尋ねてきた「東方の三博士」のこと)の中でも “Be good to me, for it went for you. Maybe the hairs of my head were numbered,” とデラが自分の髪を切ってしまったことを夫に言い訳する場面があるが、下線部は聖書が下敷きになっているものと思う。聖書では「あなたの髪さえ(神によって)数えられている→神はあなたのことなら何でも知っている」の意味で使われているので、この文は「やさしくしてね、あなたの為にしたことだから。(髪を切ってしまったのも)おそらく神様のお考えよ」位の意味になるはずだ。
オー・ヘンリーの短編「賢者の贈りもの(The Gift of the Magi)」(Magi はイエスが誕生した時に贈り物を持って尋ねてきた「東方の三博士」のこと)の中でも “Be good to me, for it went for you. Maybe the hairs of my head were numbered,” とデラが自分の髪を切ってしまったことを夫に言い訳する場面があるが、下線部は聖書が下敷きになっているものと思う。聖書では「あなたの髪さえ(神によって)数えられている→神はあなたのことなら何でも知っている」の意味で使われているので、この文は「やさしくしてね、あなたの為にしたことだから。(髪を切ってしまったのも)おそらく神様のお考えよ」位の意味になるはずだ。