「社会人のための英語回路構築トレーニング自習帖」著者のブログ

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2009年12月

「昭和史(半藤一利)」(7)

新聞がいっせいに太鼓を叩く

軍の満蒙問題に関しては非常に厳しい論調であった日本の新聞は二十日の朝刊からあっという間に態度がひっくり返りました。たとえば東京朝日新聞は二十日午前七時の号外で「奉天軍(中国軍)の計画的行動」の見出し。他の新聞もほぼ同じでした。つまり軍の発表そのものであったわけです。

ラジオと新聞の号外が競って読者を煽り、ラジオ・新聞の契約者数はウナギ登りに増えました。

「既得権擁護」「新満蒙の建設」といったスローガンが踊り、日本全国の各神社には参拝者がどんどん押し寄せ、更には血書血判の手紙が陸軍大臣の机の上に山のように積まれたということです。

これ以降マスコミは軍部の動きを全面的にバックアップし、軍部は「全国民の応援」を受けるようにまでなります。

一方、関東軍としては、敵は二十倍以上もいたので、これに対抗するために朝鮮軍の出動を要請しますが、拡大反対の天皇は「まかりならん」の一点張りでした。そこで林銑十郎司令官が二十一日午後、独断で越境命令を出しました。これも陸軍刑法に従えば死刑です。

同日夕方、陸軍の知恵者がいて「閣議で決めてもらおう」ということになり、若槻首相の「なに?すでに入ってしまったのか。それならば仕方ないじゃないか」の一言で閣議決定され予算もつきました。天皇も「君臨すれども統治せず」で、やむを得ないと、認可してしまいます。

陸軍は大喜びし、関東軍はハルビン攻略作戦を始めます。

二十三日の朝刊は軍部の後押しをしています。この時から大衆が軍を応援しはじめ、軍は強気一方になって一潟千里に満蒙領有計画が推進されていきます。

世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日を筆頭にマスコミは競って世論の先取りに狂奔しました。民衆はそれらに煽られてまたたく間に好戦的になっていきました。

そして昭和七年三月には満州国が建設されました。

「昭和史(半藤一利)」(6)

満州事変
(1)国内の状況
昭和四年(1929)、アメリカのウオール街の大暴落に続き、昭和五年(1930)のロンドン軍縮条約で、経済的な逼迫から海軍軍人の整理がはじまり、陸軍の間では「次は自分たちであろう」という危機感が蔓延し始めていました。軍人の給与も低く、お嫁さんも貰えないような状況でした。

そんな時に、心ある陸軍軍人たちが日本の状況を冷静に見直してみると、日本の軍備がすごく遅れていることが分かりました(例えば、戦車は英仏35万輌、ドイツ軍6万輌に対して日本は300輌)。第一次世界大戦の荒波に揉まれなかったわけですから当然です。

(2)ソ連、中国の状況
1929年7月には、ソビエト連邦軍が満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を撃破し、12月22日にハバロフスク議定書が締結されるなど満州における影響力を強めていました。
張作霖の後を継いだ息子の張学良(ちょうがくりょう)は、日本に敵対的な行動を取るようになっていました。また、南満洲鉄道のすぐ横に新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満洲鉄道と経営競争をしかけたりしていました。危機感を抱いた関東軍は、再三に渡り恫喝しましたが聞き入れられませんでした。

(3)天才戦略家、石原莞爾の登場
昭和三年(1928)十月には張作霖爆殺事件で辞職した河本大作のあとを受けて関東軍の作戦参謀として天才戦略家と呼ばれた石原莞爾が赴任します。彼は次から次へと作戦構想を東京の参謀本部に届けます。彼の基本構想は「何れ世界戦争がまた起こる。それに備えて日本は満州を日本の国力・軍事力育成の大基盤にしておかなければならない」というものでした。そのためには、満州をしっかり確保し、発展させ国力を養う、中国とは戦わず手を結んで、最終的には中国の強力を仰ぎ、日中共同で満州を育てていく、というのが石原の構想でした。

(4)参謀本部の大構想
石原の大戦略を受けて、参謀本部は昭和六年に「満蒙問題解決方策大綱」を作ります。その内容は「満州をいきなり植民地にするのは無理なので、まず親日の政権を樹立する、そのために皇帝をおく」というものでした(石原は大反対)。後にこの皇帝に溥儀がつくことになりますが、これについては映画等でよく知られています。この大綱にはマスコミ対策も織り込まれています(張作霖爆殺事件ではマスコミの攻撃を受けた「反省」から)。

このような構想が練られていた頃、国内は政治家も巻き込んで「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線」という雰囲気でした。日本の国民感情は満蒙の植民地化に向かっていたのです。陸軍は「時期が来た」と思ったでしょう。

(5)満州事変の勃発
そんな折、昭和四年(1931)中村震太郎大尉という人がスパイ容疑で中国軍に殺される事件が発生。さらに七月二日、満州で中国の農民と朝鮮人農民が衝突する万宝山(まんぽうざん)事件が起きました(日韓併合は1910で、この地に朝鮮人が入植していたという背景があります)。これを受けて、朝鮮各地で中国人に対する報復暴動が発生し、満州事変前の日本の対中強硬論を勢いづけました。

しかし、新聞は、この頃はまだ、満蒙問題は武力で解決すべきではないと冷静に対処していました。

そしてこの事態を一番憂慮していたのが昭和天皇と例の「宮中グループ」でした。
陸軍内部では色々動きはあったようですが、関東軍は事を起こす計画を撤回することなく、昭和四年(1931)九月十八日、午後十時二十分、柳条湖(りゅうじょうこ)付近の鉄道を爆発させました。奉天にいた関東軍の高級参謀、板垣征四郎大佐は料亭「菊文(きくぶん)」から瞬時をおかず飛び出し「張学良の攻撃である。奉天城、北大営を攻撃せよ」と命令を下しました。すべて独断であって大元帥の命令なしで下したのですから、厳密にいえば「統帥権干犯」、陸軍刑法に従えば死刑です。ここに所謂「満州事変」がはじまります。

以下はネットで拾った情報:
関東軍は、これを張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中華民国東北地方の占領行動に移った。
事件現場の柳条湖近くには、中華民国軍の兵営である「北大営」がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中華民国兵を射殺し、北大営を占拠した。関東軍は、翌日までに、奉天、長春、営口の各都市も占領した。奉天占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。
日本政府は、事件の翌19日に緊急閣議を開いた。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原喜重郎外務大臣(男爵)は関東軍の謀略との疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。しかし、21日、林銑十郎中将の率いる朝鮮軍が、独断で越境し満洲に侵攻したため、現地における企業爆破事件であった柳条湖事件が国際的な事変に拡大した。21日の閣議では「事変とみなす」ことに決し、24日の閣議では「此上事変を拡大せしめざることに極力努むるの方針」を決した。林銑十郎は大命(宣戦の詔勅)を待たずに行動したことから、独断越境司令官などと呼ばれた。
関東軍参謀は、軍司令官本庄繁を押し切り、政府の不拡大方針や、陸軍中央の局地解決方針を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大する。独断越境した朝鮮軍の増援を得て、管轄外の北部満洲に進出し、翌1932年(昭和7年)2月のハルビン占領によって、関東軍は東北三省を制圧した。










「昭和史(半藤一利)」(5)

「君側の奸」といわれた人たち

「君側の奸(くんそくのかん)」というのは昭和天皇をとりまく元老、内大臣、侍従長、侍従武官長、宮内大臣といった宮中のトップに立つ人たちのグループ(重臣グループ)のことを軍隊関係者が敵愾心をもって呼んだ言葉です。この人々は昭和天皇に多大の影響を与えました。

昭和に入っての元老は西園寺公望ただ一人で、天皇のご意見番として昭和前期の内閣総理大臣をほとんど一人で決めたと言われています。弟が入り婿で住友家に入り、住友財閥の当主を努めたこともあり、住友財閥のバックアップで情報を収集していたようです。そのため普段は静岡の興津というところに引っ込んでいましたが、中央の情勢に大変通じていたようです。

内大臣は天皇のハンコの管理人で牧野伸顕(のぶあき)が昭和十年(1935)頃まで天皇をバックアップしました。この人の奥さんが三島通庸(みしまみちつね。薩摩藩士。警視総監)の娘で、その娘・雪子さんが後に吉田茂の奥さんになります。

侍従長は2・26事件(昭和十一年:1936)で重傷を負った鈴木貫太郎が昭和十一年末まで努めました(「2・26事件」については後述)。

この三人が2・26事件頃まで重臣グループを作って国政及び軍事に関する制約を強めたと言われています。

「昭和史(半藤一利)」(4)

ロンドン海軍軍縮条約の後遺症→「統帥権干犯」

今度は海軍の話です。
第一次世界大戦に日本も参加し、戦勝国として分け前に与かり1919年のベルサイユ条約の結果、ドイツの権益であるマーシャル諸島など南洋諸島を委任統治地としてそっくりもらうことになります。

しかし戦争で疲弊した戦勝国の間で軍縮の機運が高まりワシントン軍縮条約(1922)で、主力艦(戦艦、空母)の比率が米5:英5:日本3の比率が決められます。その年日英同盟が廃棄されます。その影にはアメリカの巧みな外交戦略があったと半藤は書いています。

張作霖爆殺の翌年(1929)、いわゆるウオール街の株式大暴落に端を発し、世界的な大恐慌が発生します。これを受けて再び軍縮の動きが出て、ロンドンで補助艦艇に関する縮小が討議され、日本からは交渉には海軍大臣らが臨みました。交渉が煮詰まった段階で海軍省はこれ以上の譲歩を勝ち取るのは無理と判断し、妥結せよとの訓電を打ちますが、軍縮案を呑むかどうかで、日本の中は政治家も巻き込んで揉めます。野党の犬養毅、鳩山一郎などが振りかざした理論は「軍備というものは、軍政(軍事上の政務)を扱う海軍省の権限ではない、天皇がもつ統帥権つまり軍隊の指揮権のもとに補翼する軍令部がもっているものであって、その承認なくして勝手に海軍省が決めるのは間違っている。従って今回のことは統帥権の干犯である」というものでした。海軍の制服組もこれに同調しました。しかし妥結せよとの訓電は既に打たれており、結局、条約は発効し、国内では喧嘩両成敗でしたが、東郷元帥、伏見宮の海軍の二人の御大も統帥権干犯を言い出し、背広組の優秀な人材は切り捨てられ海軍も強硬路線に転じて行きます。

司馬遼太郎の言うところの「魔法の杖を振り回す」というのは、とにかく「統帥権干犯」といえば何でも罷り通るということです。「沈黙の天皇(「君臨すれども統治せず」)」と「統帥権干犯の振り回し」という昭和の歴史の流れに大きな影響を与えた路線がここに敷設されたのです。なお、この「統帥権干犯」という理論は北一輝(国家社会主義者。二・二六事件に連座して死刑)が考え出したものではないかと半藤は言っています。

「昭和史(半藤一利)」(3)

張作霖爆殺事件の後遺症→「君臨すれども統治せず」

満州の軍閥(私的軍事集団)として君臨していたのが張作霖(ちょうさくりん)です。満州をなんとか勢力範囲内に置いておきたい日本はこの張作霖と持ちつ持たれつの関係を保っていましたが、張作霖があまりにも威張りだしたので、日本は、役に立たなくなった時点では張作霖を亡き者にしなければ満州の安寧は保てないと大正十年(1921)原敬内閣のときに決めていました。7年後の昭和三年(1928)に蒋介石の国民党軍と衝突して敗れた張作霖が北京から奉天に逃げてきたときに、事前にその情報をキャッチした関東軍はその列車を爆破して張作霖を殺してしまいます。

もちろん関東軍は自分たちの陰謀でやったことにせず、現場で死骸として見つかったアヘン中毒の中国人二人の仕業にするつもりでした。しかし計画が杜撰であったためボロが次ぎから次ぎに出てきました。日本でもこれに気がついた天皇の側近である元老(重要国務について天皇を補佐)の西園寺公望(さいおんじきんもち)は「けしからんことだ、世界中に公にはできないが、国内ではきちんとケリをつけておかないと将来的にいい結果をもたらさない」と静岡から状況し、当時の内閣総理大臣で元陸軍大将の田中義一(私と同じ長州出身です)を呼び出し「政府としてこの問題をしっかり調べ、もし犯人が日本人であるということになれば厳罰に処さねばならない」と申し渡します。

田中義一はなかなか調査しませんでしたが、たびたび急がされ、事件から半年以上たってようやく天皇陛下に「この事件は世界的に大問題ですので、陸軍として十分に調査し、もし陸軍の手がのびているようであれば、厳罰に処するつもりでございます」と報告し、天皇は「非常によろしい。陸軍部内の今後のためにもそういうことはしっかりやるように」と答えました。

ところが、田中義一は調査報告を延ばし延ばしにした結果、事件から約一年たって「実は陸軍の関与はなかった」と天皇に報告します(関係者の処分も、軍法会議を開くことなく書類上の決済ですませます。首謀者の河本大作は、もし軍法会議を開くならば全てをばらすといって脅したらしいことが天皇の『独白録』に書いてあります)。前言を翻したことに怒った天皇は田中義一に強く辞職勧告をします。結果田中内閣は総辞職。田中義一はそのあと直ぐ亡くなりますが、このときのショックが響いたという話と自決を疑う人もあるようです。

天皇が政治に口出しして内閣総理大臣をやめさせてしまったわけです。しかしその後昭和天皇は「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」と言っています(『独白録』)。この『独白録』は天皇が戦後に昔のことを思い出して語った記録ですが、証拠はないものの元老の西園寺さんにきつくいわれたのではないかと半藤は書いています。西園寺さんはこの事件では最初は陸軍にキツイ態度を採っていたようですが、途中から態度を豹変しているようです。その理由を本人は「自分は臆病なり」と言ったそうです。常識的に考えれば西園寺さんは陸軍に脅かされたのでしょう。ここに「沈黙の天皇」が誕生したわけです。昭和史の大きな伏線です。
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