新聞がいっせいに太鼓を叩く
軍の満蒙問題に関しては非常に厳しい論調であった日本の新聞は二十日の朝刊からあっという間に態度がひっくり返りました。たとえば東京朝日新聞は二十日午前七時の号外で「奉天軍(中国軍)の計画的行動」の見出し。他の新聞もほぼ同じでした。つまり軍の発表そのものであったわけです。
ラジオと新聞の号外が競って読者を煽り、ラジオ・新聞の契約者数はウナギ登りに増えました。
「既得権擁護」「新満蒙の建設」といったスローガンが踊り、日本全国の各神社には参拝者がどんどん押し寄せ、更には血書血判の手紙が陸軍大臣の机の上に山のように積まれたということです。
これ以降マスコミは軍部の動きを全面的にバックアップし、軍部は「全国民の応援」を受けるようにまでなります。
一方、関東軍としては、敵は二十倍以上もいたので、これに対抗するために朝鮮軍の出動を要請しますが、拡大反対の天皇は「まかりならん」の一点張りでした。そこで林銑十郎司令官が二十一日午後、独断で越境命令を出しました。これも陸軍刑法に従えば死刑です。
同日夕方、陸軍の知恵者がいて「閣議で決めてもらおう」ということになり、若槻首相の「なに?すでに入ってしまったのか。それならば仕方ないじゃないか」の一言で閣議決定され予算もつきました。天皇も「君臨すれども統治せず」で、やむを得ないと、認可してしまいます。
陸軍は大喜びし、関東軍はハルビン攻略作戦を始めます。
二十三日の朝刊は軍部の後押しをしています。この時から大衆が軍を応援しはじめ、軍は強気一方になって一潟千里に満蒙領有計画が推進されていきます。
世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日を筆頭にマスコミは競って世論の先取りに狂奔しました。民衆はそれらに煽られてまたたく間に好戦的になっていきました。
そして昭和七年三月には満州国が建設されました。
軍の満蒙問題に関しては非常に厳しい論調であった日本の新聞は二十日の朝刊からあっという間に態度がひっくり返りました。たとえば東京朝日新聞は二十日午前七時の号外で「奉天軍(中国軍)の計画的行動」の見出し。他の新聞もほぼ同じでした。つまり軍の発表そのものであったわけです。
ラジオと新聞の号外が競って読者を煽り、ラジオ・新聞の契約者数はウナギ登りに増えました。
「既得権擁護」「新満蒙の建設」といったスローガンが踊り、日本全国の各神社には参拝者がどんどん押し寄せ、更には血書血判の手紙が陸軍大臣の机の上に山のように積まれたということです。
これ以降マスコミは軍部の動きを全面的にバックアップし、軍部は「全国民の応援」を受けるようにまでなります。
一方、関東軍としては、敵は二十倍以上もいたので、これに対抗するために朝鮮軍の出動を要請しますが、拡大反対の天皇は「まかりならん」の一点張りでした。そこで林銑十郎司令官が二十一日午後、独断で越境命令を出しました。これも陸軍刑法に従えば死刑です。
同日夕方、陸軍の知恵者がいて「閣議で決めてもらおう」ということになり、若槻首相の「なに?すでに入ってしまったのか。それならば仕方ないじゃないか」の一言で閣議決定され予算もつきました。天皇も「君臨すれども統治せず」で、やむを得ないと、認可してしまいます。
陸軍は大喜びし、関東軍はハルビン攻略作戦を始めます。
二十三日の朝刊は軍部の後押しをしています。この時から大衆が軍を応援しはじめ、軍は強気一方になって一潟千里に満蒙領有計画が推進されていきます。
世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日を筆頭にマスコミは競って世論の先取りに狂奔しました。民衆はそれらに煽られてまたたく間に好戦的になっていきました。
そして昭和七年三月には満州国が建設されました。