「社会人のための英語回路構築トレーニング自習帖」著者のブログ

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2013年03月

言葉は面白い(5)

「hair」という単語を使った成句の1つに「get in/into one’s hair」というものがあります。「(仕事の邪魔をして)をいら立たせる、困らせる」の意です。直訳は「人の髪の毛の中に入る」ですが、数的には沢山ある「髪の毛」も単数扱いです。

一方テレビのサスペンスで殺人現場に「髪の毛」が残っている場合は、日本語でも「髪の毛が1本」残っていたと言うように、英語でも「a hair」とか「two hairs」と数えます。

マーク・ピーターセン氏は、このことについて『単数形か複数形かという問題は、実際の数や量よりも、「ものを1つ1つとして意識する意味があるかどうか」という問題である』と書いています。

そして、日本人は「片脚が痛い」ということを伝えたい場合に「He says his leg is sore.」とする傾向があるとも指摘しています。確かに「痛いのは彼の脚」であり「痛いのは両脚でなく片脚」ですから、問題ないように見えます。しかし「his」は限定詞の1つで「the」の親籍ですから「話者」と「リスナー」の間に「どの脚が痛いのか」の「了解」が存在する必要があります。特殊な場合(例えば彼は脚を切断手術していて片脚しかないことが相互に了解されている)を除いて「He says he has a sore leg.」と言わなくてはなりません。

この問題をおさらいしておきましょう。
He has a sore leg.→痛いのが左脚か右脚かを問題にしていない。
He has sore legs.→「彼は両脚が痛い」(文法的には何本の脚が痛いのかは不明であるが、人間には2本の脚しかないので、人間に使う場合には、この表現はOKです)
He has the sore leg.→普通の状況では使えません(どの片脚かの相互了解は通常ない)。
He has the sore legs. →普通の状況では使えません(どの片脚かの相互了解は通常ない)。

重箱の隅をつつくように「犬を散歩に連れて出かけたところ、彼がジョギングしているのを見かけた」の「I was out walking my dog when I noticed that he was jogging.」について考えてみましょう。
「walking dog」と「dog」を無冠詞にしたら「数えられない犬」ですから「犬の肉」の意になってしまい、意味不明です。
「walking a dog」と「dog」を無冠詞にしたら「ある犬(どの犬でもよい)」の意ですから、散歩に連れて行くという文脈には相応しくありません。
「walking the dog」と「dog」を定冠詞にしたら「特定の犬」にはなりますが「各家庭は必ず犬を飼っていて、しかも一匹だけ」という「了解」も通例存在しないので無理です。
話者は一匹しか散歩に連れて行っていないので、結局文脈からは「my」の選択肢しか残っていないということです。ここでは「他人の犬」と区別するというより他の選択肢がないので「my」。「文脈」から消去法で導かれた選択です。

言葉は面白い(4)

(4)背景が分からないと映画や演劇、テレビも面白くない

アメリカに初めて住んだ時、舞台を見に行って観客が10回笑ったところで2−3回しか笑えなかった記憶があります。下宿先のおばあさんと一緒にテレビを見ていて何で可笑しいのか分からないので尋ねたところ「私も面白くない」ということもありました。著者の場合、英語の問題もあるでしょうが、それだけではないと思っていました。

「続日本人の英語」の中で映画『オズの魔法使い』からの台詞を紹介しています。主人公のドロシーが、愛犬トートーと共にカンザス州から夢の国に飛ばされて、トートーに言います。現実の世界はモノクロ、そして夢の国に飛ばされてからはテクニカラーになり、現実と夢の国の中での出来事を区別しています。
“Toto, I have a feeling we’re not in Kansas anymore.” (字幕:「トートー、ここはカンザスじゃないみたいよ」)⇒ここで観客はどっと笑う。

これはカンザスをよく知らなければ何も面白くないハズです。著者もカンザスがどこにあるかは知っており、飛行機の乗り継ぎで通ったこともありますが、どんな所かは知りませんので何が面白いのか分かりません。この映画が作られた1939年頃の(そして多分今も)カンザスは、アメリカの真ん中にある、まったく平坦な、木さえ少ない単調な風景に、小麦とトウモロコシの畑しか思い浮かばない田舎だったそうです(因みにカンザス州の愛称は「Wheat State」)。この背景を知っていれば、この台詞は可愛くてユーモラスです。「Kansas」を辞書引いてみると、何と「We are not in Kansas anymore.」が「成句」として出ていました。「今はもうカンザスにいるわけではない→すでに状況は変わっている」の意です。勿論『オズの魔法使い』の台詞がベースになっており、アメリカ人なら皆知っているということでしょう。「I am as corny as Kansas in August.」と言えば「平凡な田舎者」のイメージになります。

アメリカの田舎の話になりましたが、著者が住んだテネシー州も田舎です。そのテネシーの人々が「田舎者」扱いするのが「ミズーリー州」の人々です。州の愛称は「Show-Me State」「the Bullion State」です。「bullion」は「金(銀)の延べ棒」の意。「from Missouri」は「証拠を見せられるまで信じない、容易に納得しない」の意(昔、ミズーリー州選出の議員が議会で “I’m from Missouri; you’ve got to show me.(ミズーリー州の出身だから証拠を見せていただきましょう)”と言ったことから全国区の表現になりました。アメリカではチェックによる支払いが日常化していますが、チェックの受け取りを拒否し、現金払いを要求する場合は、例えば “I’m from Missouri; give it to me now.” と言えば受けるでしょう。

筆者が今思い浮かべることの出来る、相手をからかって「田舎者」扱いする表現は「Dela, Where?」と「redneck」です。前者は「デラウエアー州」をからかう場合(余りに小さい州なので何処にあるのか分からないというからかい)、後者は「南部の田舎者」を軽蔑する表現(下を向いて畑を耕しているので首が日焼けで赤くなる)。

言葉は面白い(3)

(3)複数の青空

「sky」を辞書で引くと、複数形は「skies」であると出ています。複数形がるということは通例「可算名詞」として使えるということです。しかし「one sky」「two skies」「three skies」のように「純粋可算名詞」としては使えません。

日本語にも「青空」「曇り空」「星空」と「空」には種類があるように、形容詞をつければ「a」を伴うことが出来ます。「青空 = a blue sky 」「曇り空 = a cloudy sky」「星空 = a starry sky」。「特定する意識」があれば、勿論「a」が「the」に変わります(例えば「その教会は青空を背景にくっきりそびえていた」は「The church stood out against the blue sky.」)。

「Blue Skies(青空)」という歌がありますが、その出だしは次の通り。
Blue skies smiling at me
Nothing but blue skies do I see...
「blue skies」と複数形になっています。これは「I like apples.」と同じように「一般的な青空」を表しています。しかし、「リンゴ」の場合は「時間の流れ」を意識することはありませんが、「青空」はどんな場合でも一旦夜で途切れますので複数形になることで自然に「同じ青空でも、毎朝新しい朝がめぐってくる」という「時間の流れ」を意識させます。その青空しか目に入らない、ということですから幸せな気持ちが表れています。送られて来る絵(イメージ)は「形(文法)」よりも「文脈」の方の影響が強い一例です。

「skies」は「天気、天候、気候、風土」の意味でも使われます。
Nobody likes gray skies for his or her vacation.(休暇に悪い天気を望む人などいない)
I want to live under less harsh skies.(私はもっと穏やかな風土の所で暮らしたい)

言葉は面白い(2)

(2)「the」に隠された深層心理

英語の名詞の前の「冠詞なし」「a」「the」が、その名詞の意味を決めることは多くの人が「知識」としては知っています。そして「the」は「特定するイメージ」を持つことも知っています。この「特定するイメージ」とは、別の言い方をすれば「話し手が、自分が『the』と言えば、相手も具体的にどれを指し示しているのか分かるハズと思っている」ということです。

“I bought a book yesterday. The book is very interesting.” という時、話し手は相手は「自分が昨日買ったその本」を指し示しているのが分かるハズと思っています。
“Let’s go walking on the beach after dinner.” と言えば、どの浜辺なのかは分かりきっている、という話者の意識です。

我が家の例で言うと、妻はよく「肩を揉んで頂戴」と言いますが、彼女は英語でなら“Would you give me the shoulder massage?” と言うと思います。それは彼女が「結婚したら肩を揉んであげる」と著者が約束したと思っているからです。本当に約束したかどうかは妻にとっては問題ではありません。“Would you give me a shoulder massage?”(肩を揉んでくれない?)ではないのです。“What shoulder massage?”とトボケル手はあります。

ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の一曲に イライザが見事コクニーを克服して美しい英語の発音を身につけた時の歌(“The Rain in Spain”)があります。
Eliza: The rain in Spain stays mainly in the plain!(全て [ei] の韻を踏んでいます)
直訳すれば「スペインの雨は主に平野に降りとどまる」ということになります。この台詞は発音矯正のためのものですが、「the rain in Spain」は定冠詞がつくことによって「the rain in England」が「冷たく、陰鬱」なのに対して、「温かく、爽やか」といったイメージを与えることになります(実際どのようなイメージを持つのかはスペインに住んでいる人とか、スペインを旅行した人にしか分かりませんが、日本人が「梅雨」といったら共通のイメージを持つようなものだと思って下さい。「梅雨」の英訳も「the rainy season」と「the」が付きます)。

アメリカに住んでいた時に気になった表現に「the Japanese」というものがあるのを思い出しました。日本人もアメリカ人も使っていました。「the Japanese」は、文法的に厳密に解釈すれば「日本人は全部で1億2千万人余りいるが、1人残らず全員」という意味になります(the +複数は「全部」を意味します)。1億2千万人全員が何か同じということは例外的なことを除いて(例えば「人間である」)あり得ないので、不適切な表現になるハズだと「論理」を気にする著者は当時思っていました。日本人が使う場合は「無邪気」で済まされますが、アメリカ人がこれを使った場合には深層心理的に恐ろしいものがあるということに、「続日本人の英語」を読んで気付かされました。「十把一絡げ」のこの表現は「日本人の中の違いには全く注意を払っていない」とマーク・ピーターセン氏は指摘しています。確かに彼らが「the Americans」と自分たちのことを言っているのは聞いた記憶がありません(範囲を限定している場合は別です)。我々日本人も無意識のうちに「十把一絡げ」の意識を持っている場合がありそうなので自戒。

言葉は面白い(1)

昔購入し、もう一度読もうと積んでおいた本を読み返しています。マーク・ピーターセン氏の「続日本人の英語」(岩波新書)もその内の1冊です。読み返してみると改めて面白い。「言葉の奥深さ」みたいなものを感じさせてくれます。著者は英語を母語とする者ではないので、英語のニュアンスを本当にはどの程度キチンと理解できているかは分かりませんが、自分なりに消化して(消化した積り?)ご紹介したいと思います。

(1)「偉い」「悔しい」等はどう考えても英語では1語で表せない。

例:映画『タンポポ』より:
タンポポ:「ねえ、あたしよくやってる?」
ゴロー:「よくやってるよ」
タンポポ:「えらい?」
ゴロー:「えらい、えらい」

これがアメリカで発売されたビデオの字幕スーパーでは次の様になっていたとのこと。
Tampopo : Am I trying hard enough?
Goro : Sure you are.
Tampopo : Am I good?
Goro : Sure.

ピーターセン氏によれば、この字幕スーパーの日本語での感覚は次のようになるとのこと。
タンポポ:「私は十分に頑張っている?」
ゴロー:「それはそうだよ」
タンポポ:「私には才能があると思う?」
ゴロー:「思う」

著者なら「Am I good?」のところを「Do you think I am great?」とするかも知れませんが、字幕スーパーの場合、口の動きに合った字数を求められるので「Am I great?」と「尊大な」言い方にしてしまうかも知れません。因みに「偉い」を和英辞書で調べてみると「distinguished」「great」「high-ranking」「important」の4つが出ていましたが、この『タンポポ』の会話での「えらい?」のニュアンスはどれも出せません。

「悔しい」については「regrettable」が載っていて「入試に失敗して悔しい」を「It is regrettable that I failed the entrance examination.」と訳しています。ところが「regrettable」を英和で調べると「後悔させる、残念な、遺憾な、悲しむべき」の訳語しかありません。ピーターセン氏は「a certain mixture of anger and frustration and bitter resentment」のように説明するしかない、と書いています。

川端康成の「雪国」の冒頭の文(「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった 。」) が、サイデンステッカー氏による英訳では、「The train came out of the long tunnel into the snow country.」 となっていることは割合よく知られています。著者は日本語の方が遥かに「情緒溢れている」ように感じます。サイデンステッカー氏をして、ここまでしか出来ないと思うと「言葉の難しさ」と同時に「言葉の奥深さ」を感じずにはおられません。文学作品の翻訳家は本当に大変だなと思います。
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