初めて亜米利加へ
私の最初の渡米は1968年=昭和43年であった(当時28歳)。未だ羽田空港から国際線が飛び立っていた(成田空港の開港は1978年)。職場の上司や同僚たちが全員見送りに来てくれた。そして同僚の女性から花束を頂いた。女性から花束を頂いたのは、それが最初で最後である。この花束も亜米利加(アメリカ)の通関を通ることは出来ず没集となってしまった。父は私にはもう会えないかも知れないと遺言書を書いた、と母から後で聞かされた。当時の海外渡航についてのイメージは凡そこのようなものであった。1968年のアメリカは、まだベトナム戦争(1960−1975)の最中であり、それが暗い影を落としていた。4月には、あの “ I Have a Dream.”(「私には夢がある」) の演説で有名な、日本の現在の英語の教科書にも取り上げられているマーチン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスで暗殺された。エルビス・プレスリーのお墓もメンフィスにある。お隣の加奈陀(カナダ)では憲法が改正され、英語とフランス語が公用語となった。日本では小笠原諸島がアメリカから返還され、川端康成がノーベル文学賞を受賞した。テレビアニメ「巨人の星」もこの年から。「三億円事件」「東大紛争による卒業式中止」の暗い出来事もこの年である。外国為替は未だ固定相場の時代で「1米ドル=360円」であった。私は「留学生扱い」で1ヶ月300ドルの手当を会社から頂いた。

「あなたの部屋はキャンセルされました」
飛行機が遅れて、桑港(サンフランシスコ。桑港の由来は、桑は中国語の音で「サン」、それに港町だから、とWikipedia には出ている)に着いたのは、正確な時間は覚えていないが辺りは真っ暗だったから夜中に近かったハズだ。当時サンフランシスコには私の勤めていた会社の駐在員事務所は未だなかったし、知人もいなかったので、空港からのバス(今日本の空港から出ているものと同じ)で旅行代理店が手配してくれたホテルに向かった。真っ暗な中をバスがひたすら高速道路の上を走った。バスの中から1人外を見ていて心細くなったことを今でもよく覚えている。やっとダウンタウンのバスターミナルに着いた。幸いにもそのホテルはバスターミナルから通りを渡ったところにあった。大きな荷物を引きずってホテルに到着。すでに10人程度の人が宿泊しようとしていたが、どうも様子がおかしい。皆何やら言いながらホテルを去って行く。どうやら満室らしい。いよいよ私の番になり、旅行代理店が作ってくれた書類を見せながら「予約がしてある Mr. Ikuo Nishimura です」と告げた。係りの女性はコンピューターに何やら打ち込んだ。その画面を見て私に「あなたの部屋はキャンセルされました」と告げた。一瞬頭の中が真っ白になった。「どうして?」「午後6時までにご連絡がなかったので、キャンセルされました」「飛行機に乗っていて連絡のしようがなかったのです(飛行機が遅れたのは事実だが、チェックインが遅れる場合にはホテルに連絡しないとキャンセルになることは、実は知らなかった)」(私は多分必死の形相だったはず)→「少し待って下さい。今待っている人を先に処理しますから(と言ったと思う。当時はこの程度の英語も十分には聞き取れていなかったのである)」。しばらくして私の他は誰もいなくなった。「あなたが予約した部屋はないが、もっと安い部屋ならあるがどうするか?」→正に「地獄で仏(That was what I had least expected in time of need.)」です。普通の部屋で何も問題なかった。アメリカでは直ぐには引き下がらず、取り敢えず「自己を正当化しておくこと」を最初の日に学んだ。

荷物が出て来ない
翌日市俄古(シカゴ)に向かった。当時シカゴには私が勤めていた会社の事務所があり、アメリカの技術情報収集を行っていた。その事務所の方々がニューヨークに滞在する「留学生」の面倒を見て下さることになっていたので、ご挨拶のために立ち寄ったものである。
飛行機の中から長い間下を見ていて「アメリカはなんて大きな国。なんでこんな大きな国と戦争をしたのか」が第一印象だった。
オヘア空港(当時、多分全米一利用客の多かった空港)で2つのスーツケースの内の1つは所定のターンテーブルから出てきたが、もう1つが出て来ない。機内で知り合いになった若いアメリカ人が、親切にもその1つのスーツケースを見ていてくれる間に方々のターンテーブルを見てまわった。誰もその辺りには居なくなった頃に、ようやく他の2−3のスーツケースと一緒に他のターンテーブルの片隅に置いてあるのを見つけた。何故そうなったのかは未だに分からないが、その後もこの種のトラブルは周りでよく耳にし私自身経験もしたが、日本では当時は考えられないことであった。

「そんなところに行ったら危険ですよ」
空港から事務所に電話をして「無事着いたので、ホテルに荷物を置いてからご挨拶に伺いたい」と申し上げたところ「どこのホテルですか」と聞かれた。旅行代理店を通じて予約してあったホテル名と場所を申し上げたところ「西村さん、そんなところに行ったら危険ですよ。直ぐキャンセルして別のホテルにされた方がいいと思いますよ」という返事が返ってきた。当時の日本の旅行代理店には、未だここまでは十分な情報が蓄積されていなっかったのであろう。後日そのホテルのある地域の近くまで行ってみたが、いかにもヤバそうなところだった。先に事務所に電話をしたお蔭で助かった。当時のアメリカの大都会は危険が一杯だったのである。このシカゴの事務所にはその後も随分とお世話になった。翌々日目的地の紐育(ニューヨーク)に向かった。空港には先にニューヨークに入っておられた先輩のY氏が迎えに来て下さっていた。多分ホテルも先輩が手配して下さっていたものと思う。何の苦労もなかったので、何処に泊まったのかも覚えていない。とにもかくにも私の亜米利加での生活が始まった。