不況が受験にも影響を与えているらしい。受験料を節約するために受験校数を絞り込んでいるのである。当然、塾・家庭教師への支払いも絞らざるをえない状況であろう。

文部科学省の「平成18年年度 子どもの学習費用調査」によれば、小学生で公立に通う生徒の 43.3% が学習塾に通い、年間支出が142 千円、私立で 68.2% 、287 千円。公立中学生では 71.6%(246 千円)、私立中学で53.6%(221 千円)である。塾の草分けである河合塾は、戦前の創立ではあるが、名古屋市内で校舎を展開し始めたのは1955年からである。なお、学習塾は文部科学省の管轄だと思われていることが多いと思うが、サービス産業の一種であり経済産業省の所轄である。

ここでは、塾・家庭教師の功罪については触れない。何らかの理由で塾に通わない(通えない)、家庭教師につかない(つけない)場合に、それでも「いい成績」を残すための著者の体験的対処法を提示する。

著者が父親の転勤で名古屋に引っ越したのは、朝鮮戦争(1950.6.25−1953.7.27)が勃発した1950年である。日本がこれを契機に経済発展をとげようとしていた時期である。一部の学校は未だ「荒れて」いた時代でもある。小学6年生のとき両親は心配して、著者を私立に行かせるべく、知り合いの先生のところに勉強に行かせた。

多分1−2回通ったと思うが、直ぐやめてしまった。理由は、今から考えれば馬鹿らしいことである。先生に『「沈む」の反対は何か?』と聞かれて「沈まない」と答えたところ、思わず先生が笑った。それに気を悪くしたのだ。以来、塾・家庭教師の類に縁が全くない。

両親が受験を勧めた学校は「中高一貫」のいわゆる受験校であったが、倍率は高くなかった。多分未だ経済的な制約が大きかったのだと思われる。小学校の担任の先生からは『入れるだろうが、君の頭では精々クラスの真ん中くらいにしか行けないハズだ。「鶏口となるとも牛後となる勿れ」という諺もある。それを覚悟して行きなさい』と言われていた。

入学時はクラスでの成績は12番であったが2年に上がる時は2番になっていた。この学校の個人成績は中間試験と期末試験の点数の合計だけで順位が決められた(裏では1−10の相対評価が行われていたことは、アメリカの大学受験のため英文の成績証明書を取り寄せて初めて分かった)。熱心に部活をしたので、部活が禁止になる試験1週間前くらいしか家では勉強らしい勉強をした記憶がない。宿題は遠距離通学だったので、行きの電車の中でやった(帰りは部活で疲れて寝ていた)。

「いい試験の結果」をとるための方法とは次のようなことであった。
授業を休まない。
朝飯は必ず食べる(「腹がへったら戦はできない」ではないが、授業に集中するためである)。それでも腹がへって昼飯前に弁当を食べることもあった。
授業で分からないところは、人のことは気にせず質問する(試験が近づくと、試験範囲をせばめるために、皆にそのかされて先生を質問攻めにして先に進まないようにしたこともある)。それでも納得できなかったら職員室に押しかけて質問する。
試験に出そうなところは授業中に教科書・ノートを必ずマークしておく。授業に集中していると、試験に出そうなところは自然と分かった。
部活が禁止になったら、教科書・ノートのマークしてあるところだけを勉強する。

以上の方法で中学卒業まで成績は問題なかった。しかし、高校に入ったら「釣瓶落し」に落ちて行った。上記の方法もこの辺りで限界である。大学入試のためには、高校に入ったら、やはり勉強の「量」も大切だと感じている。