電話が未だ普及していない頃は緊急の通信には電報が使われました。
標題の電報を受け取ったら、常識的には「カネオクレ タノム」と理解すると思いますが「カネオクレタ ノム」とも解釈できます。
「カネオクレ タノム」と理解したとしても「金遅れ 頼む」とも「金送れ 頼む」とも「金送れた 飲む」等とも解釈可能です。現実にはこの電報を受け取った状況があるので「誤解」することはないと思いますが、「理屈」をこねるとこういうことになります。
何が言いたいかというと、次の2つです。
(1) 日本語には「分かち書き」をする習慣がない。
(2) カタカナ(ひらがな)は表音文字で意味は持たない。「金送れ頼む」なら漢字という表意文字が使われているので、極端な話、漢字が音的に読めなくても意味は通じます(最低「類推」できます)。
英語では
(1)「分かち書き」をしなければならない。即ち「語」と「語」との間には1スペースを入れなければならない。
(2)アルファベットを使って書かれた「語」は何も意味を持たない。発音されて始めて意味を持ちます。
(1) について著者は学校で習った記憶はありませんが、先生が黒板に書く英語を見て自然に習得したのだと思います。著者の娘がアメリカで始めて学校に行った頃、ノートを見せてもらいましたが、「分かち書き」をしなければならないということを知らなかったのでしょう「There’sabookonthedesk.」 の様に語と語がどこで切れるのかひと目では分かりませんでした。
(2) について不思議に思う方がいるかも知れませんが「stone」を見て「石」の意だと分からない英語を母語とする人はいます。しかし[stoun] と発音して「石」の意だと分からな人はいません。即ち「stone」→ [stoun] →「石」なのです。「表意文字」と「表音文字」の差です。
(1) からは、我々は常に「語」についての意識を強く持たなければならないということが言えます。長年英語を教えていて、初心者は「形容詞と副詞の区別が弱い」「必要な前置詞を抜かす」傾向があると感じています。
(2) からは、英文を読む時は常に「心の中で」発音し、その音に脳が反応するようにするクセをつける必要があるということが言えます。
標題の電報を受け取ったら、常識的には「カネオクレ タノム」と理解すると思いますが「カネオクレタ ノム」とも解釈できます。
「カネオクレ タノム」と理解したとしても「金遅れ 頼む」とも「金送れ 頼む」とも「金送れた 飲む」等とも解釈可能です。現実にはこの電報を受け取った状況があるので「誤解」することはないと思いますが、「理屈」をこねるとこういうことになります。
何が言いたいかというと、次の2つです。
(1) 日本語には「分かち書き」をする習慣がない。
(2) カタカナ(ひらがな)は表音文字で意味は持たない。「金送れ頼む」なら漢字という表意文字が使われているので、極端な話、漢字が音的に読めなくても意味は通じます(最低「類推」できます)。
英語では
(1)「分かち書き」をしなければならない。即ち「語」と「語」との間には1スペースを入れなければならない。
(2)アルファベットを使って書かれた「語」は何も意味を持たない。発音されて始めて意味を持ちます。
(1) について著者は学校で習った記憶はありませんが、先生が黒板に書く英語を見て自然に習得したのだと思います。著者の娘がアメリカで始めて学校に行った頃、ノートを見せてもらいましたが、「分かち書き」をしなければならないということを知らなかったのでしょう「There’sabookonthedesk.」 の様に語と語がどこで切れるのかひと目では分かりませんでした。
(2) について不思議に思う方がいるかも知れませんが「stone」を見て「石」の意だと分からない英語を母語とする人はいます。しかし[stoun] と発音して「石」の意だと分からな人はいません。即ち「stone」→ [stoun] →「石」なのです。「表意文字」と「表音文字」の差です。
(1) からは、我々は常に「語」についての意識を強く持たなければならないということが言えます。長年英語を教えていて、初心者は「形容詞と副詞の区別が弱い」「必要な前置詞を抜かす」傾向があると感じています。
(2) からは、英文を読む時は常に「心の中で」発音し、その音に脳が反応するようにするクセをつける必要があるということが言えます。