「社会人のための英語回路構築トレーニング自習帖」著者のブログ

Thank You for Visiting Me! 「英語赤ひげ先生」による「知っている英語」を「使える英語」にするための「理論」と「教材」を一挙に無料公開しています。

アメリカでの経験

最初の米国滞在を終える

時は1969年。今から40年前。

シカゴ:
著者は、アメリカでの最初の滞在地をニューヨークからシカゴ(ニューヨークの下宿のおばあさんは「チカゴ」と発音していた)に移した。”Chicago” は北米先住民族語で「野生タマネギの生産地」という意味。市の愛称は “the Windy City” で、風が強いところである。著者は真冬にオヘア空港に着いたが、除雪された雪がうず高く積まれていて、風も強く本当に寒かった。「オヘア空港(O’hare International Airport)」は世界一の離着陸数を誇る(現在はアトランタにその座を譲っている可能性はある)。「風と共に去りぬ(”Gone with the Wind”)」の女性主人公 Scarlet O’hara と同じように “O’” で始まっているのでアイルランド系の名前であろう(アイルランド系の名前には他に “Mc…” があるが「・・・の子孫」という意味だそうだ)。ここには著者が勤務していた会社の連絡事務所があり、本当にお世話になった。

ミルウオーキー:
当時業務提携をしていた会社があり、そこで研修を受けさせて頂くために訪問した。ミルウオーキーは「ミュンヘン・サッポロ・ミルウオーキー」のキャッチ・フレーズで有名(北緯43度付近にありビールで有名)。ドイツ系の移民が多く、皆背が高く、勤続年数も長かった。アメリカ人は直ぐ勤務先を替えるという偏見が崩れた。従業員会館には永年勤続者の写真が並べて展示してあったのを思い出す。

コロンバス(インデイアナ州):
ここも研修のために訪れた。1492年にアメリカを発見したと言われている(本当はアメリカ本土ではなかった)航海者「コロンブス」に因んだ名前であるが「コロンブス」と発音したら通じない(英語では「コ ラム バス」と第二音節を強く発音する)。全米に同名の都市が5つあることを後で知ったが、一番大きいのはオハイオ州の州都である。インデイアナ州のコロンバスは「インデイ500」で有名。シカゴからバスで行ったが「コロンバス行きのバスは何処から出ますか」と聞いて、教えてもらった場所に行ったら確かにバスが待っていた。「石橋を叩いて渡る」性格の著者は乗るときに “Is this for Columbus, Indiana?”( 「インデイアナ州のコロンバス行きですか」)と聞いたら「違う」と言われ助かった。最初に教えてくれた人は勝手に “Columbus, Ohio” だと思ったのだ。

ここでは土地の人に教会に連れて行ってもらったり、その後食事に招待してもらったりした。文法に忠実に話そうと思っていた頃であるが「あなたの英語は崩れていなくて気持ちがいいわ」と誉めてもらったことも、いい思い出である。

道を歩いているとスクールバスが止まって、生徒たちがこちらを見ていたこともある。日本人が珍しかったのであろう。

映画「卒業(THE GRADUATE)」:
アメリカでの研修を終えて日本への帰途、ある田舎町に立ち寄った(多分本社からの依頼で何かを調べに行ったのだと思うが、詳細は思い出せない)。夕方時間があったので、ホテルの近くの映画館に入った。やっていたのがダステイ・ホフマン主演の「卒業(THE GRADUATE)」であった。ラスト近くのシーンで、エレーンが他の男と教会で結婚式を挙げている最中にダステイ・ホフマンが、2階から例の「エレーン、エレーン!」と叫ぶ青春映画である。

この映画は著者にとって一生忘れ得ない映画となった。それは「英語が全部分かった」と感じた最初の映画だからである。主題歌はサイモンとガーファンクルの「ザ・サウンンド・オブ・サイレンス」。こうして良い思い出と共に帰国した。

青春の思い出をシェアするために粗筋をウイッキペデイからそのまま紹介する。尚、英語的には、米では “graduate” は通例日本の「学士」を意味する。

大学陸上部のスターで新聞部長でもあったベンジャミンは、卒業を機に帰郷する。友人親戚一同が集った卒業記念パーティー、将来を嘱望される若者に人々は陽気に話しかける。だがベンジャミンは素直に喜べない何かを感じる。将来に対する不安なのか、それとも。パーティーで再会したのは、幼なじみエレーンの母、ミセス・ロビンソン。卒業記念のプレゼント、赤いアルファ・ロメオでミセス・ロビンソンを送ったベンジャミンは、彼女から思わぬ誘惑を受ける。
一度は拒んだベンジャミン。だが目標を失った彼に示された道は他にない。コロンビア大学院への進学を前にしたうつろな夏休みが始まる。夜ごとの逢瀬。それでもぬぐい去れない虚無感。彼の憂鬱は晴れない。心配した両親は同時期に帰郷した幼なじみのエレーンをデートに誘えという。一度きりのデートでわざと嫌われるようにし向けるはずが、ベンジャミンはエレーンの一途さに打たれる。
そして二度目のデートを約束してしまう。二度目のデートの当日、約束の場所に来たのはミセス・ロビンソンだった。ミセス・ロビンソンはベンジャミンにエレーンと別れるように迫り、別れないなら彼と交わした情事をエレーンに暴露すると脅す。焦燥したベンジャミンはエレーンに自ら以前話した不倫の相手は、他ならぬ彼女の母親と告白する。ショックを受けたエレーンは、詳しい話も聞かずに、ベンジャミンを追い出す。
夏休みは終わろうとしている。
エレーンを忘れられないベンジャミンは、彼女の住む街にアパートを借り、大学に押しかけ、エレーンを追いかける。揺れるエレーンの心。結婚しようという彼の言葉を受け入れかけたある日、しかし、彼女は退学していた。他の男と結婚するのだという。
どうにかして彼女の結婚が執り行われている教会まで駆けつけたベンジャミンは、エレーンと新郎が今まさに誓いの口づけをした場面で叫ぶ。「エレーン、エレーン!」。ベンジャミンへの愛に気づくエレーンはそれに答える。「ベーンッ!」。
ベンジャミンを阻止しようとするミスター・ロビンソン。悪態をつくミセス・ロビンソン。二人は手に手を取って教会を飛び出す。
長距離バスの後部座席に腰掛けた二人は、エレーンの花嫁姿という格好に衆人環視を受けながら、どこかへと旅立っていく。


ホテルで盗難に

未だ1968年である。ある長期セミナーに出席するためにサンフランシスコ郊外の長期滞在型のホテルに滞在していた。当時、著者が勤務していた会社ではアメリカ向けの輸出を始めたばかりで、先輩のエンジニアの方2名がカタログ片手に、そのホテルを事務所兼用にして日夜奮闘されていた。このホテルは自炊が可能な部屋もあり、このエンジニアの方々が夜は食事を作って下さった。毎晩酒を酌み交わし、深夜まで日本語でアメリカを大いに語り合った。

ある晩自分の部屋に戻ったところ、置いてあったパスポート入りの財布が盗まれていた。生まれて初めての盗難が、アメリカのホテルで自分の身に降りかかった。真夜中に警察を呼び、盗難届けを行ったが、後日空の財布だけが出てきたとの報告を貰った。毎晩同じ時間部屋を留守にすることを確認の上盗みに入られたものと思うが、アメリカにも慣れてきて著者の気持ちに油断があったものと自分を戒めた。

お金を借りてニューヨークに戻り、領事館でパスポートを再発行してもらった(このニューヨークの領事館には、たまたま、大学の同じクラスだったH君が勤務しており、助かった。その彼も今はいない)。アメリカを大いに語り合った先輩のお一人も先日他界された。今、こうしてブログを書いていて当時のことが走馬灯の如く頭の中を駆け巡って行く。色々の方々に助けられて今の自分がある。合掌。




1968年のニューヨーク地下鉄

下宿代を含めて1ヶ月300ドルで暮らさなければならなかった著者は、ニューヨークでの交通手段は専ら「バス」と「地下鉄」であった。当時のニューヨークの地下鉄の駅は暗く、落書(graffiti)が到るところに書かれ、夜の電車内は警官が2人1組で、むき出しの拳銃を腰に下げて、パトロールしていた。無事下宿に戻ったときは、正直なところ、毎回ホッとしたものだ。

殺人事件も数が多すぎて、新聞の片隅にチョット掲載される程度だった。

地下鉄のホームで電車を待つ間は、他の人から離れて空手の真似をした。下宿のおばあさんから「ニューヨーク人は、日本人は皆空手(karate。発音は「カラーテ)をやると思っている」と聞いていたので、これを利用させてもらったものである。この為かどうかは分からないが、誰も近づいて来なかった。

著者の帰国後の1970年以降、ニューヨークでは犯罪が急激に増加。1990年には年間の殺人事件数は史上最多の2245件を記録。アメリカ最大の犯罪都市になってしまった。ところが、驚くべきことにその後、殺人事件数が減り始め、1998年には633件まで急激に減少。凶悪事件の総数も半分に減少(ネットで拾った情報→2003年時点)。

ニューヨークの凶悪犯罪が減少した背景には、ネットで拾った「落書きを徹底的に消し、軽犯罪を徹底的に取り締まったことが関係している」という説と「ジュリアーニ市長(1994年就任)が銃には銃を以って制した(分かり易く言えば、マフィアを利用)」という俗説とがある。後者はアメリカで生活していた日本人から聞いた話である。

前者の説は、「ブロークン・ウィンドウズ」理論。これは、割れた窓を放置していると、人の目が及ばない場所であると受け取られ、小さな犯罪を誘いやすく、それがエスカレートしていずれ大きな犯罪につながるという理論である。

この理論の元となったのは、スタンフォード大学の心理学者、フィリップ・ジンバルド教授によって1969年に行なわれた、カリフォルニア州の住宅街に乗用車を放置するという実験である。まず教授は、ナンバープレートを取り外し、ボンネットを開けたままにしたが、1週間は変化がなかったので、フロントガラスを壊してみた。すると、すぐにバッテリーを持ち去られるなど、多くの部品が次々と盗まれてしまった。1週間後には、落書きが書かれ、ほとんどの窓ガラスが割られるなど、車は完全に破壊されてしまった。

「自分だけではない」という意識から罪悪感が薄れ、結果的に乗用車の破壊という大きな被害を引き起こしたと考えられるという。日本流に言えば「皆で渡れば怖くない」である。

話を今に引き戻す。
最近サンフランシスコに出張した方から「街が汚くなり、物乞いが多くなった。行かない方がいい」という話を聞いた。アメリカの最近の急激な不況と関係があるのではないかと感じた。1968−1969年に著者がアメリカ滞在中に経験したことと同じことが起きつつあるのかも知れない。街は汚いし、バーがある付近ではアル中の物乞いがたむろしていた記憶がある(ビール1杯分のお金が貯まったら、バーに直行していた)。

数年前に訪れたセブ島では、貧富の差が大きく、犯罪も多い。何重にも鍵をかけ、単独では外に出ない、金持ちは銃を手にした「私兵」を雇い銃で命と財産を守っていた。

日本でも犯罪が増加している感じがする。著者が住んでいる地域でも治安は確実に悪くなっているみたいだ。10年先の日本の姿を思い描いてみると、起こって欲しくはないが、ある朝起きてみたら、鍵がかからない自分の駐車場に誰かが寝ているということも十分考えられる。猫は今でも黙って陽だまりのある車のところで寝ている。

アメリカでの経験(9)

日本の「お見合制度」がうらやましい

著者が初めて渡米したのは1968年。今から40年以上も前のことである。最初ニューヨークに滞在したが、あるボランテイアの団体があって、外国人の話し相手になりつつ英会話の練習を手助けしてくれていた。ある時妙齢の、著者のタイプの女性(英語では “She was just my type.”)が相手をして下さった。

印象に残っている話題が2つ。

1つは、アメリカのキャリアの仕事は物凄く「プレッシャー」があるという話だった(彼女は所謂「キャリア」)。当時の日本では、まだそのような感じ方は一般的ではなかったので、アメリカの会社というところは非常に競争が激しいのだなと感じた。

もう1つが、著者が日本の「お見合い制度」について話をしたところ、「日本の女性が羨ましいわ」とポツリともらしたことだ。アメリカでは「お見合い制度」は殆どない、ということであった。ネットで調べてみると、次のように、日本でも最近はお見合い結婚は急激に減っているようだ。

1935年 69.0%の人が見合いで結婚
2000年 見合いで結婚する人はわずか7.1%
1935年 13.4%の人が恋愛結婚
2000年 恋愛で結婚する人は86.6%

恋愛結婚率と離婚率とが直接関係しているかどうかは分からないが、日本では1965年から1995年の30年間で、離婚率は4.6倍に増えたという統計もある。今ではもっと増えていると想像される。周りのご家庭の子女をみても、既に離婚、或いは離婚予備軍が結構おられる。

離婚率の国際比較は夫々統計ベースが異なるので中々難しい筈であるが、ある調べでは(ネットで拾ったもの)、一番離婚率が高いのがロシアで日本の3倍近い。次にアメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダと英語圏が続く。一番低いのがイタリアで日本の三分の一。以外だと思われる方が多いと思うが、イタリアの人口の95%がカトリックであることも大いに影響しているものと思われる。アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダも主としてキリスト教であるが(イギリスはもともとはキリスト教で、現在の国教は、そこから分派したもの)、プロテスタントが主流。同じキリスト教でもプロテスタントでは離婚を禁止はしていない。

英語圏の離婚率の高さは、言語が主として英語であることも影響しているものと思われる。言語構造が ”yes” と “no” の二進法なので、離婚について考える場合に、容易に「離婚すべし」の結論に達する傾向があるのではないだろうか。

アメリカでの経験(8)「お米が食べたい!」

英語の方は、渡米して6ヶ月くらいで肩の力がスーと抜けた。日本からの留学生や駐在員の方々に聞いてみたが、大体そんなところらしかった。1日10時間英語に接しているとして、1日10時間X1ヶ月30日X6ヶ月=1800時間程度必要としたわけだ。

会社から支給される手当は1ヶ月300ドルで、部屋代を差し引くと210ドル。当時ニューヨークの高級日本料理店では最低35ドルは取られたので、高嶺の花だった。しかし、やはり日本人、どうしてもお米が食べたくなる。そこで1週間に1回くらいは安い中華料理屋に入って、ライスを食べた。パサパサで決して美味しくはなかったが、我慢するしかなかった。同じ留学生のF氏、Y氏と「美味い米が食いたいなー」と嘆き合ったものだ。何回かに1回は下宿の近くの簡易日本食屋らしき所で「おみおつけ」「おひたし」「豆腐」そして「一膳飯」を食べた。これは美味しいと感じた。

時々日本から出張者が来られた。著者は留学生だから一応英語は出来た。そこで所謂「アテンド兼通訳」を頼まれることもあった。出張者の仕事が終わると、夕食はどこかいいところに案内して欲しいということになる。「日本食か中華か、それとも洋食にしますか?」とお尋ねすると、10人が10人「「日本食」だった。このお相伴に預かり、この時とばかり高嶺の花を満喫したものだ。懐かしい思い出の1つではある。

因みに英語では「お米」も「御飯」も “rice” 。「お握り」は “rice ball”。
記事検索
livedoor プロフィール
Categories
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ