「社会人のための英語回路構築トレーニング自習帖」著者のブログ

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アメリカでの経験

リオ・ブラボー

著者は1968年に初めてアメリカに渡った。そして先ずニューヨークで英語の勉強をした。先生はテキサス州出身の先生だったが、授業で「私はテキサス出身だが銃を撃つのは下手糞だ」と自己紹介されたのを思い出した。コロンビア大学の先生だけあってテキサス訛り(例えば big は「ベッグ」に聞こえる)は微塵も感じることはなかった。テキサスと言えばジョン・ウエインの西部劇。2月21日の本ブログで Rio Bravo を取り上げた。著者は「Rio Bravo」はてっきり「素晴らしい川」の意だと思っていたが、どうも誤解だったようです。ウイッキペデイアには次のように書かれています。

リオ・グランデ川 (Rio Grande) は、アメリカ合衆国のコロラド州から流れ出しメキシコ湾へ注ぐ川である。スペイン語で、リオ (Rio) は川を意味し、リオ・グランデ (Rio Grande) は、「大きな川」という意味。(したがって、「リオ・グランデ川」は、重言になる。)
メキシコでは、リオ・ブラーボ(Rio Bravo、怒れる川)またはリオ・ブラーボ・デル・ノルテ(Rio Bravo del Norte、北の怒れる川)とも呼ぶ。アメリカ合衆国では、スペイン語名に「川」を意味する英語 river を付けて Rio Grande river と呼ぶこともある(ただし、重言)。

映画 Rio Bravo のDean Martin 等が歌う主題歌は年配の方なら皆聴いたことがあると思いますが歌詞は次の通り。

The sun is sinking in the west
The cattle go down to the stream
The redwing settles in the nest
It’s time for a cowboy to dream

Purple light in the canyons
That’s where I long to be
With my three good companions
Just my rifle, pony and me

Gonna hang (gonna hang) my sombrero (my sombrero)
On the limb (on the limb) of a tree (of a tree)
Comin’ home (comin’ home) sweetheart darling (sweetheart darling)
Just my rifle, pony and me
Just my rifle, my pony and me

Whippoorwill in the willow
Sings a sweet melody
Riding to Amarillo
Just my rifle, pony and me

No more cows (no more cows) to be roped (to be roped)
No more strays will I see
Round the bend (round the bend) she’ll be waiting (she’ll be waiting)
For my rifle, pony and me
For my rifle, my pony and me

redwing : ワキアカツグミ
Whippoorwill : ホイップアーウイルヨタカ(夜行性。名は鳴き声に由来)
Amarillo : テキサス州の町。cowgirl / cowboy関連が観光目玉の1つ

上記の3語は、実は今回著者が最初は全く聞き取りが出来なかった箇所です。人間「知らないことは聞きとれない」のは事実です。辞書で調べて再度聴いたところ今度はよく聞き取れました。人間「自分が聞きたいように聞こえる」のも又事実です。

椰子の実

テレビのサスペンスを見ていたら謎解きに島崎藤村の「椰子の実」が大きなウエイトを占めていた。You tube で改めて歌を聴いた。

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)
旧(もと)の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷の涙

突然、昔サンフランシスコに駐在していた頃(1970年代)のある日々が思い起こされた。確か未だ単身赴任だった頃のハズ。海岸に座って海を見ていた。椰子の実は流れてこなかったが「激(たぎ)り落つ 異郷の涙」は同じだった。スカイプはないし、電話は電話代が高くて、かけたくてもかけられない時代だった。私の父は後で分かったことだがこの頃「遺言書」を書いていた。日本の企業戦士の多くは多かれ少なかれ多分こんな風な経験を心の奥にしまいこんで頑張ったのだと思う。

最初の米国滞在を終える

時は1969年。今から40年前。

シカゴ:
著者は、アメリカでの最初の滞在地をニューヨークからシカゴ(ニューヨークの下宿のおばあさんは「チカゴ」と発音していた)に移した。”Chicago” は北米先住民族語で「野生タマネギの生産地」という意味。市の愛称は “the Windy City” で、風が強いところである。著者は真冬にオヘア空港に着いたが、除雪された雪がうず高く積まれていて、風も強く本当に寒かった。「オヘア空港(O’hare International Airport)」は世界一の離着陸数を誇る(現在はアトランタにその座を譲っている可能性はある)。「風と共に去りぬ(”Gone with the Wind”)」の女性主人公 Scarlet O’hara と同じように “O’” で始まっているのでアイルランド系の名前であろう(アイルランド系の名前には他に “Mc…” があるが「・・・の子孫」という意味だそうだ)。ここには著者が勤務していた会社の連絡事務所があり、本当にお世話になった。

ミルウオーキー:
当時業務提携をしていた会社があり、そこで研修を受けさせて頂くために訪問した。ミルウオーキーは「ミュンヘン・サッポロ・ミルウオーキー」のキャッチ・フレーズで有名(北緯43度付近にありビールで有名)。ドイツ系の移民が多く、皆背が高く、勤続年数も長かった。アメリカ人は直ぐ勤務先を替えるという偏見が崩れた。従業員会館には永年勤続者の写真が並べて展示してあったのを思い出す。

コロンバス(インデイアナ州):
ここも研修のために訪れた。1492年にアメリカを発見したと言われている(本当はアメリカ本土ではなかった)航海者「コロンブス」に因んだ名前であるが「コロンブス」と発音したら通じない(英語では「コ ラム バス」と第二音節を強く発音する)。全米に同名の都市が5つあることを後で知ったが、一番大きいのはオハイオ州の州都である。インデイアナ州のコロンバスは「インデイ500」で有名。シカゴからバスで行ったが「コロンバス行きのバスは何処から出ますか」と聞いて、教えてもらった場所に行ったら確かにバスが待っていた。「石橋を叩いて渡る」性格の著者は乗るときに “Is this for Columbus, Indiana?”( 「インデイアナ州のコロンバス行きですか」)と聞いたら「違う」と言われ助かった。最初に教えてくれた人は勝手に “Columbus, Ohio” だと思ったのだ。

ここでは土地の人に教会に連れて行ってもらったり、その後食事に招待してもらったりした。文法に忠実に話そうと思っていた頃であるが「あなたの英語は崩れていなくて気持ちがいいわ」と誉めてもらったことも、いい思い出である。

道を歩いているとスクールバスが止まって、生徒たちがこちらを見ていたこともある。日本人が珍しかったのであろう。

映画「卒業(THE GRADUATE)」:
アメリカでの研修を終えて日本への帰途、ある田舎町に立ち寄った(多分本社からの依頼で何かを調べに行ったのだと思うが、詳細は思い出せない)。夕方時間があったので、ホテルの近くの映画館に入った。やっていたのがダステイ・ホフマン主演の「卒業(THE GRADUATE)」であった。ラスト近くのシーンで、エレーンが他の男と教会で結婚式を挙げている最中にダステイ・ホフマンが、2階から例の「エレーン、エレーン!」と叫ぶ青春映画である。

この映画は著者にとって一生忘れ得ない映画となった。それは「英語が全部分かった」と感じた最初の映画だからである。主題歌はサイモンとガーファンクルの「ザ・サウンンド・オブ・サイレンス」。こうして良い思い出と共に帰国した。

青春の思い出をシェアするために粗筋をウイッキペデイからそのまま紹介する。尚、英語的には、米では “graduate” は通例日本の「学士」を意味する。

大学陸上部のスターで新聞部長でもあったベンジャミンは、卒業を機に帰郷する。友人親戚一同が集った卒業記念パーティー、将来を嘱望される若者に人々は陽気に話しかける。だがベンジャミンは素直に喜べない何かを感じる。将来に対する不安なのか、それとも。パーティーで再会したのは、幼なじみエレーンの母、ミセス・ロビンソン。卒業記念のプレゼント、赤いアルファ・ロメオでミセス・ロビンソンを送ったベンジャミンは、彼女から思わぬ誘惑を受ける。
一度は拒んだベンジャミン。だが目標を失った彼に示された道は他にない。コロンビア大学院への進学を前にしたうつろな夏休みが始まる。夜ごとの逢瀬。それでもぬぐい去れない虚無感。彼の憂鬱は晴れない。心配した両親は同時期に帰郷した幼なじみのエレーンをデートに誘えという。一度きりのデートでわざと嫌われるようにし向けるはずが、ベンジャミンはエレーンの一途さに打たれる。
そして二度目のデートを約束してしまう。二度目のデートの当日、約束の場所に来たのはミセス・ロビンソンだった。ミセス・ロビンソンはベンジャミンにエレーンと別れるように迫り、別れないなら彼と交わした情事をエレーンに暴露すると脅す。焦燥したベンジャミンはエレーンに自ら以前話した不倫の相手は、他ならぬ彼女の母親と告白する。ショックを受けたエレーンは、詳しい話も聞かずに、ベンジャミンを追い出す。
夏休みは終わろうとしている。
エレーンを忘れられないベンジャミンは、彼女の住む街にアパートを借り、大学に押しかけ、エレーンを追いかける。揺れるエレーンの心。結婚しようという彼の言葉を受け入れかけたある日、しかし、彼女は退学していた。他の男と結婚するのだという。
どうにかして彼女の結婚が執り行われている教会まで駆けつけたベンジャミンは、エレーンと新郎が今まさに誓いの口づけをした場面で叫ぶ。「エレーン、エレーン!」。ベンジャミンへの愛に気づくエレーンはそれに答える。「ベーンッ!」。
ベンジャミンを阻止しようとするミスター・ロビンソン。悪態をつくミセス・ロビンソン。二人は手に手を取って教会を飛び出す。
長距離バスの後部座席に腰掛けた二人は、エレーンの花嫁姿という格好に衆人環視を受けながら、どこかへと旅立っていく。


ホテルで盗難に

未だ1968年である。ある長期セミナーに出席するためにサンフランシスコ郊外の長期滞在型のホテルに滞在していた。当時、著者が勤務していた会社ではアメリカ向けの輸出を始めたばかりで、先輩のエンジニアの方2名がカタログ片手に、そのホテルを事務所兼用にして日夜奮闘されていた。このホテルは自炊が可能な部屋もあり、このエンジニアの方々が夜は食事を作って下さった。毎晩酒を酌み交わし、深夜まで日本語でアメリカを大いに語り合った。

ある晩自分の部屋に戻ったところ、置いてあったパスポート入りの財布が盗まれていた。生まれて初めての盗難が、アメリカのホテルで自分の身に降りかかった。真夜中に警察を呼び、盗難届けを行ったが、後日空の財布だけが出てきたとの報告を貰った。毎晩同じ時間部屋を留守にすることを確認の上盗みに入られたものと思うが、アメリカにも慣れてきて著者の気持ちに油断があったものと自分を戒めた。

お金を借りてニューヨークに戻り、領事館でパスポートを再発行してもらった(このニューヨークの領事館には、たまたま、大学の同じクラスだったH君が勤務しており、助かった。その彼も今はいない)。アメリカを大いに語り合った先輩のお一人も先日他界された。今、こうしてブログを書いていて当時のことが走馬灯の如く頭の中を駆け巡って行く。色々の方々に助けられて今の自分がある。合掌。




1968年のニューヨーク地下鉄

下宿代を含めて1ヶ月300ドルで暮らさなければならなかった著者は、ニューヨークでの交通手段は専ら「バス」と「地下鉄」であった。当時のニューヨークの地下鉄の駅は暗く、落書(graffiti)が到るところに書かれ、夜の電車内は警官が2人1組で、むき出しの拳銃を腰に下げて、パトロールしていた。無事下宿に戻ったときは、正直なところ、毎回ホッとしたものだ。

殺人事件も数が多すぎて、新聞の片隅にチョット掲載される程度だった。

地下鉄のホームで電車を待つ間は、他の人から離れて空手の真似をした。下宿のおばあさんから「ニューヨーク人は、日本人は皆空手(karate。発音は「カラーテ)をやると思っている」と聞いていたので、これを利用させてもらったものである。この為かどうかは分からないが、誰も近づいて来なかった。

著者の帰国後の1970年以降、ニューヨークでは犯罪が急激に増加。1990年には年間の殺人事件数は史上最多の2245件を記録。アメリカ最大の犯罪都市になってしまった。ところが、驚くべきことにその後、殺人事件数が減り始め、1998年には633件まで急激に減少。凶悪事件の総数も半分に減少(ネットで拾った情報→2003年時点)。

ニューヨークの凶悪犯罪が減少した背景には、ネットで拾った「落書きを徹底的に消し、軽犯罪を徹底的に取り締まったことが関係している」という説と「ジュリアーニ市長(1994年就任)が銃には銃を以って制した(分かり易く言えば、マフィアを利用)」という俗説とがある。後者はアメリカで生活していた日本人から聞いた話である。

前者の説は、「ブロークン・ウィンドウズ」理論。これは、割れた窓を放置していると、人の目が及ばない場所であると受け取られ、小さな犯罪を誘いやすく、それがエスカレートしていずれ大きな犯罪につながるという理論である。

この理論の元となったのは、スタンフォード大学の心理学者、フィリップ・ジンバルド教授によって1969年に行なわれた、カリフォルニア州の住宅街に乗用車を放置するという実験である。まず教授は、ナンバープレートを取り外し、ボンネットを開けたままにしたが、1週間は変化がなかったので、フロントガラスを壊してみた。すると、すぐにバッテリーを持ち去られるなど、多くの部品が次々と盗まれてしまった。1週間後には、落書きが書かれ、ほとんどの窓ガラスが割られるなど、車は完全に破壊されてしまった。

「自分だけではない」という意識から罪悪感が薄れ、結果的に乗用車の破壊という大きな被害を引き起こしたと考えられるという。日本流に言えば「皆で渡れば怖くない」である。

話を今に引き戻す。
最近サンフランシスコに出張した方から「街が汚くなり、物乞いが多くなった。行かない方がいい」という話を聞いた。アメリカの最近の急激な不況と関係があるのではないかと感じた。1968−1969年に著者がアメリカ滞在中に経験したことと同じことが起きつつあるのかも知れない。街は汚いし、バーがある付近ではアル中の物乞いがたむろしていた記憶がある(ビール1杯分のお金が貯まったら、バーに直行していた)。

数年前に訪れたセブ島では、貧富の差が大きく、犯罪も多い。何重にも鍵をかけ、単独では外に出ない、金持ちは銃を手にした「私兵」を雇い銃で命と財産を守っていた。

日本でも犯罪が増加している感じがする。著者が住んでいる地域でも治安は確実に悪くなっているみたいだ。10年先の日本の姿を思い描いてみると、起こって欲しくはないが、ある朝起きてみたら、鍵がかからない自分の駐車場に誰かが寝ているということも十分考えられる。猫は今でも黙って陽だまりのある車のところで寝ている。
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