「社会人のための英語回路構築トレーニング自習帖」著者のブログ

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日本の歩み

日本はどこで間違えたか(5)

今回は「国の骨格作り」に関するものを集めてみました。

(1) 「変則国家」の克服を−1988−93年(中西輝政:京都大学教授)
(2) 「官僚主導」の強化こそ誤り−2007−10年(堺屋太一:作家)
(3) 大海を恐れる魚−1980年代(屋山太郎:評論家)
(4) 高度成長のつまずき−1960年代(御厨貴:東京大学教授)
(5) 自信過剰の病理−バブル期(舛添要一:新党改革代表)
(6) 志高い国是を−1980年代半ば(野依良治:理化学研究所理事長)
(7) リーダー育成の失敗−高度成長期(山内昌行:東京大学教授)

(1) 保守論壇の論客である中西教授は、『今日日本が直面している三大難問である「〆眄危機極端な対米依存の状況から抜け出せない外交・安全保障の破綻弱体化の一途を巡る政治のリーダーシップと金権腐敗の進行」の淵源と端緒が昭和から平成へと変わったこの時期と言える』と述べています。

△砲弔い討蓮◆悄嵶篝錣僚焉」と天安門事件後の中国の弱体化が明瞭になったあの時期にこそ、日本は対米依存から脱却して、一気に自主防衛と自立外交を目指して戦後の国策の大きな転換を図るべきだった』と主張しています。

1988−93年の総理大臣は誰だったかと思い調べたら、竹下、宇野、宮沢、そして細川連立内閣へと続きました。細川演説に国民が熱狂したのを覚えています。

中西教授は別のところで「中国が民主化するまでは日米同盟の強化以外は選択肢はない」とも述べています。

(2)堺屋氏は『日本は戦後、90年頃までは上り坂が続いた。その間、官僚指導で総力を挙げて規格大量生産型の工業社会を目指した。これは世界文明の方向に合致していた。ところが、1980年代から世界の文明が変化、物財の豊かさよりも満足の大きさを求めるようになった。いわゆる「知価革命」である。この変化に鈍感だった日本は、90年以降に経済的地位も政治や文化の活力も低下する』『それでも2006年ぐらいまでは、世界のペーパーマネー好況に支えられてモノ造りで稼ぐことができた。実はこの間に体制を変更、官僚主導を棄てて国際化を進め、創造力に富んだ知価社会を創るべきだった』と述べています。

「1980年代から世界の文明が変化、物財の豊かさよりも満足の大きさを求めるようになった」の部分については、著者は、一部はそのような動きだとは思うが世界全部ではないように感じます。

(3)屋山氏は『1980年代、国鉄民営化とともに、あらゆる業種に対して、大胆な規制緩和をやるべきだった』『日本の規制過多の淵源は戦前にできた統制経済体制にある』『戦後も少ない外貨で資源を買って重要産業に傾斜配分し、実に効率のよい戦後復興をやり遂げた』『早く国際標準を身につけて海外に進出すべきだが、支流ばかりを泳いだ魚は大海に出るのを恐れる』と述べています。農協を名指しで批判しています。

(4) 御厨教授は『日本はどこで間違えたのでしょうか、戦後に限って言えば、高度成長期をいつのまにやら日本全体で容認していったトキでありましょう』『高度成長を空気のようにあたりまえと感じ、国家なるものを希薄化させていってしまった。戦後日本の岐路は、まさにここにあったと言えましょう』と述べています。『高度成長たることを示す断片的事実は、常に語られるのですが、なぜどうして、それにいつからいつまでかが、実ははっきりしないのです』とも述べています。

著者は1968−69年アメリカに滞在しましたが、当時、日本はアメリカの後を追っかけてはいけないということは体で強く感じました。しかし、日本とアメリカに住んでみて、残念ながらアメリカの後追いをした感じがします。今話題の五木寛之の「下山の思想」ではありませんが、「山を上る」のではなく「山を下る」視点がもっと早くから必要だったのかも知れません。著者は「日本のDNAは農耕民族なので“ゆっくり”が性に合っており、それをベースにした国造りを目指すべきだった」と思っています。

(5)舛添氏は『Japan as Number One と海外から評価され、有頂天になった』『日本のバブルは崩壊し、その後二十年に及ぶデフレに突入していく。戦後の成功体験の上に胡坐をかいて、80年代に大胆な改革を断行しなかったツケが今日の停滞につながっている』『ペリー、マッカーサートいった外圧がなければ動かない日本の弱みである』と述べています。

確かに「円がドルに代わって基軸通貨になる」というような議論も70年代にはあったことが思い出されます。今度は巨額の国の借金が外圧になるような気がします。

(6)野依氏は『主権国家は自らの意志で、正統な目標を掲げなければならない。衰退は目指すべき姿を見失ったときにはじまる』『戦後の分水嶺は1980年代半ば、経済絶頂期における慢心にあった』『豊かな人類社会の存続にむけて貢献する国を目標としよう』と述べています。
(7)山内教授は『いかなる時代でも国民をリードする有能な政治家とそれを育てる良質な世論が存在しなければ、国家の安全と社会の繁栄は成り立たない』『歴史と同じく政治も前代の条件に制約され、積み残した課題にふりまわされる』『高度成長期は、世界史に類のない奇跡的なモノの豊かさをこたらした反面、責任ある安全保障論や健全な国家観の論議をなおざりにした』『政治と経済と外交安全保障についてバランスをもって語れるリーダーは、三角大福中以降の政治家に少なくなった』『これは戦前戦後の歴史と教育の断絶を埋める努力を怠ったツケであり、もとより胆力と大局観を欠いたリーダーがバブルの崩壊から東日本大震災と原子力発電事故の試練に対応できなかったのは当然であろう。現代政治が袋小路に陥ったのは偶然ではないのだ』『各領域におけるリーダーやエリートの必要性に関する議論は英雄待望論と誤解されがちであり、「上から目線」なるレッテルを単純に貼る責任拡散の風潮が強まる一方である』と述べています。

「良質な世論」ということについては、マスコミの責任が大きいと思う。日本は民主主義の国であるから最後は国民1人1人の責任になるのだが、現実的にはマスコミの影響が大きいと言わざるを得ない。最近気になるのはマスコミ各社の所謂「紋切り型」のアプローチである。例を挙げれば、政治家の不適切言動には「辞任」、東日本大震災関係では「被災地に寄り添う」「絆」という括り方。

以上で5回に亘る「日本はどこで間違えたか」を終えるが、日本の低迷をまねいた分岐点はいつかについてご紹介しなかったものは次の通り。

(1) ものづくり軽視の風潮―1990年代初頭(中村邦夫:パナソニック会長)
(2) 消費者の変質を見誤った―1990年代以降(鈴木敏文:セブン&アイ・ホールデイングス会長)
(3) 放置されてきた再配分問題―1970年代前半と2009年(湯浅誠:反貧困ネットワーク事務局長)
(4) お台場原発爆破事件―2011年3月11日(石川九楊:書家)
(5) 日本はどこでも間違っていない(関川夏央:作家)

日本はどこで間違えたか(4)

今回は、今日の深刻な経済状況と財政危機を招いた元凶は何だったかについてまとめてみました。

(1)プラザ合意の時「大人」になるべきであった−1985年(浜矩子:エコノミスト)
(2) 国の成り立ちを錯覚−バブルの発生と崩壊(与謝野馨:前経済財政担当相)
(3)「円安」という麻薬−1990年以降(野口悠紀雄:早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問)
(4)存在しなかった「高橋是清」−1993―95年(水木楊:作家)
(5)最も失われた三年−2009―11年(竹中平蔵:慶応大学教授)


(1)プラザ合意:一言で言えば「円高誘導」。当時の内閣総理大臣・中曽根康弘、大蔵大臣・竹下登、日銀総裁・澄田智らによって決断されたこの政策は、日本がアメリカの赤字解消を容認した対米妥協策との解釈が一般的。当時のレートは1ドル=240円程度であったので、今日ではその3倍も円は高くなっていることになる。
『日本が間違えたのは、1985年のプラザ合意時だと思う。あの時、日本は新世界への大飛躍の入り口に立っていた。ドルの過大評価が修正されることの裏返しとして、円の価値が上がる。それに伴って、日本経済の体質と構造が変わる』ハズだった。日本の取った政策はあくまで「円高不況回避」「輸出立国の看板は下ろさない」であった。悪魔に魂を売ったファウストのような日本経済のファウスト症候群の原点だった、と浜氏は言う。その結果が、言わずと知れたバブル経済の出現だ。先送りにされた課題が本日我々に重くのしかかっている。

(2)『プラザ合意以降、円高不況の声の中で大きな経済対策をやり、バブルを許し、地道な「ものづくり」が軽視され「財テク」がもてはやされた。資源のない狭い国土の日本が避けることのできない経済の成り立ちは、世界に通用する「もの」や「サービス」を作り出し、それを輸出して、その収入で日本人が必要とする資源などを購入するという極めてシンプルなことである。』『ものづくりという王道を行くことが日本復活につながる』

(3)『1980年代後半以降、世界経済に大きな変化が生じた。それは、新興工業国の成長である。90年代以降は中国工業化の影響が顕著になり、世界市場での日本のシェアは徐々に浸食されることになった』『これに対して日本は、90年代半ば以降、金融緩和と円安政策によって輸出を増加させる経済政策を行った』『日本の貿易黒字がアメリカに還流し、アメリカの住宅価格高騰やサブプライムローンの増加を招いた』『この大規模なバブルがはじけ、為替レートは一挙に円高に向かった』『円安の中で構造改革を怠った。この構造改革を怠ったことが経済衰退の本質だ』

(4)高橋是清:戦前の大蔵大臣。積極財政によって経済を上向きにした、として有名。
『1993年、バブル崩壊直後の不況対策が、小出しの愚を犯した』『もし1993年4月から95年9月にいたる経済対策が一度に実施されていたら、総額48兆円。市場の度肝を抜き、経済は再び上昇軌道に乗ったことだろう』『「出るを制す」だけで財政の均衡を取り戻した例は、古今東西ほとんどない』。間もなく始まる国会で、消費税アップ問題を政府・与党・野党とも「国益」の観点から国民に分かるように熟議して公開してほしいと思う。

(5)『バブル崩壊後の1990年代、日本は失われた十年を経験した。しかしその後、小泉総理のリーダーシップによって、経済は明らかに再活性化の兆しを見せていた』『その流れを覆したのが、麻生内閣による2009年の「骨太の方針2009」だった』『骨太2009では骨太2006を放棄し、90年代の財政ばらまきと既得権益保護に再び舵を切った』『鳩山・菅内閣の政策は、マクロの枠組みで見る限り麻生内閣と極めて類似したものと言える』。小泉内閣は2001年4月から2006年9月までで、竹中さんは経済を担当する大臣でしたので、先述の野口さんの説に従えば、金融緩和と円安政策によって輸出を増加させる経済政策を取ったのは竹中さんということになる。野口さんは、この政策は持続可能なものでなく『日本の貿易黒字がアメリカに還流し、アメリカの住宅価格高騰やサブプライムローンの増加を招いた』と批判していますので評価が分かれています。

日本はどこで間違えたか(3)

今回は「国を守ること」に関するものを集めてみました。

(1) 普天間問題はもはや「時間切れ」−2006年以降(ケビン・メア:元米国務省日本部長)
(2) 湾岸戦争の蹉跌―1990年(岡本行夫:外交評論家)
(3) 「平和利用」に隠された「核開発」−1954年(小出裕章:京都大学原子炉実験所助教)

(1) 『普天間問題の最初の躓きは、自民党政権時代に遡る。それは増大し続ける中国の軍事的な圧力を認識できず、立ち向かってこなからだ。そのため彼らは在沖縄海兵隊の存在が日本防衛、この地域全体の安保にいかに重要かを、うまく説明できなかった。一方で、中井真知事や沖縄の関係者は普天間問題でしばしば政治ゲームを行ってきた。06年から09年にかけて、自民党政権は沖縄の合意を得ようとするため、移設計画の基本部分も再交渉可能だという印象を与えてしまった。悪いことに、09年に政権の座についた民主党は(以下、前々首相の言動に始まるドタバタについては割愛)多大な被害をもたらしたのだ』という主張。そして残された選択肢は(嫐邯徹楡澂普天間固定のどちらかしかないが、両方の選択肢とも、米国は運用上は受け入れられる、と付け加えています。

「増大し続ける中国の軍事的な圧力を認識できず」という部分については、著者が1968−69年アメリカで勉強させてもらっている時に「中国の脅威」を多くの一般アメリカ人が口にしていましたが、著者にはピンとこなかったという経験があります。国の安全への脅威に対する認識の差を感じさせられました。

(2) 『日本は湾岸戦争の際、人的貢献を見送り、130億ドルもの拠金も国際的には冷たく受け止められたことを指摘しています。それ以来、日本には「危険は負担せず逃げ回り、カネだけ出すキャシュデイスペンサー国家」という評価が長きにわたってまとわりつくことになった』

湾岸戦争に協力した国々にアメリカが感謝の意を述べた当時の放送で聞きましたが、「日本」の名前は出て来ませんでした。このことは今では日本でも広く知れ渡っていると思います。これも又アメリカで勉強させてもらっている時の経験ですが、もし戦争が起こったらどうするかをアメリカの子供たちに聞いてみましたが、異口同音に「鉄砲を持って戦場に行く」という答えが返ってきたのを今でも思い出します。
(3) 小出さんは原発を批判している学者として有名ですが、『「原子力の平和利用」を標榜しながら実は核兵器保有能力を手にいれることが、NHKの「“核”を求めた日本」でも明らかにされた』と原発批判を展開されています。氏は原子力に関わる者として、日本が進路を誤った時を挙げるとするならば中曽根康弘が1954年に国会に突如原子炉建造予算を提出し、大きな議論もなく成立したことだと述べています。以後「核」と「原子力」の使い分け(原子力は平和利用で善であるという宣伝が強くなされた)が行われたと糾弾しています。技術には「軍事利用」と「平和利用」の区別は確かにありませんが、著者も「騙されて」いました。事の是非は別にして、もし日本が「核」を手に入れていたならば、全く異なる歴史が展開されたのかかも知れません。

日本はどこで間違えたか(2)

明けまして、おめでとうございます。今回の「日本はどこで間違えたか」は日本人の心を扱ったものを集めてみました。

(1)不条理を忘れた驕りー1973年(曽野綾子:作家)
(2)勤勉を捨てた日―バブル期(菅原文太:俳優)
(3)金と共に去りぬ―1980年代後半(橋本治:作家)

(1) については、日ごろ家内と一緒に日本の昨今の風潮を嘆いている心情に近いので、著者の心情代弁として詳しく紹介させて頂きます。

『まだ東日本大震災の復興のめどもたっていない時に、こういうことを言うのは不心得とは自覚しつつ、幼時に大東亜戦争を体験した者としてある種の感慨を述べたい』とした上で次のように述べておられる。

『昨今、多くの人たちが、3月11日以来人世観が変わったと言うが、私は戦争の時の方がはるかに厳しい地獄を見たと思っている。(中略)非戦闘員を巻き込んだ東京大空襲では、一夜にして十万人が死んだ。国家が個人の不幸を補償してくれる、などという発想は全くなかった。この人生にはれっきとした不合理、不運、残酷な死があることを始終見せつけられていた。現在でも、実態はそれほど変わっていないと私は思うのだが、誰もが「安心して暮らせる生活」が現世にはあると思うほど甘くなった。地震や災害に対して被災者に政府から災害弔慰金が出るようになったのは1973年。災害で住宅が全壊するなどした人に対して被災者生活支援制度により支援金が出るようになったのは1998年からだが、いずれも遡っては支給されていない。災害を受けた人の苦労が減ることに関して、私もまた異論を唱えるものではないが、それでも人々が、自然災害、不運などの結果を現世で承認せず、補填されることも期待するようになったのは大きな意識の変化である。昔の親たちはどんなに苦労しても教科書代は自分で払った。親の犠牲を知る子供たちは学校へ行けることを幸福に思った。今では教育は国民の権利だから教科書は1969年までにすべて無料になり、その後若者の登校拒否、ひきこもり、自殺も増えた。人間の生活の中に含まれる永遠の矛盾や不幸の影を忘れたり否定したりすると、人間は舞い上がり不満はますすます募り、その結果人間そのものを見失う、と私は思っている。』

1973年という年を振り返ってみると、前年7月に田中角栄が所謂「三角大福」戦争に勝って首相になり、9月には日中国交正常化(田中・大平訪中)、1973年は、世の中は石油危機・モノ不足・大手商社の買い占めで騒然としていました。

地震や災害に対して被災者に政府から災害弔慰金を出すようになった経緯を著者は知りませんが、田中角栄が「日本列島改造」のみならず「日本人の心」まで改造してしまったようです。

著者も災害を受けた人の苦労が減ることに関して、異論を唱えるものではありませんがが、これらのお金が全て税金で賄われることと、大災害ならお金が貰えるのに1個人のみが災害を受けた場合には貰えない(と理解していますが)という現実には違和感があります。

不条理:筋道が通らないこと。道理に合わないこと

(2)は、借金だらけの希望の乏しい社会を後世に、我が子に残すことになった淵源(注:「えんげん」と読みます。物事の成り立ってきたみなもと、根源、根本の意)は、あのバブル期に勤勉という美徳を捨てた日にある、という主張です。

(3)は、日本人の重要な判断基準である「いるか、いらないか」「似合うか、似合わないか」を、この時期に捨てて「金があるからいいじゃないか」「そんな貧乏臭いことを考えなくても」になったことが日本の間違いの始まりである、という主張です。

(2)(3)については、著者は当時海外勤務をしており、帰国したのはバブル期の後半でしたが、帰国した時の第一印象は「日本(人)は狂ったのか?!」でした。このことを指摘したら同僚に「海外ボケしたか」と笑われた経験があります。

日本はどこで間違えたか(1)

「文芸春秋」の新年特別号で表記の大アンケートが組まれている。日本の低迷をまねいた分岐点はいつかを識者30人が抉るというものです。夫々の方々が自分の関心のある分野で意見を述べておられるようですので、指摘されたことが多岐に亘っており、戦後を生きてきた著者も頷けるものもあります。著者の感想も交えつつご年末・年始に亘って紹介します。1回目は全てがご破算になった日本の敗戦に関するものを集めてみました。田中康夫新党日本代表も作家ですから、このテーマを扱ったのが全員作家というのも面白いです。

(1) 無条件降伏という過誤―1945年8月(石原慎太郎:作家、東京都知事)
(2) 「最悪の金曜日」―1940年9月13日(半藤一利:作家)
(3) 粉飾データによる決定―1941年(猪瀬直樹:作家、東京都副知事)
(4) 北方領土痛恨の失敗―1951年(佐藤優:作家)
(5) なぜハルノートに激高したのか―1941年(保坂正康:ノンフィクション作家)
(6) 「詔勅必謹(しょうしょうひっきん)」の深意を忘れた日本人―1945年(田中康夫:新党日本代表)

(1) は、無条件降伏の所産は、占領支配者が短期間で作成した奇体な憲法の受け入れと、日本の近代史を全て否定し自己嫌悪を造成する教育の徹底だったと主張している(ドイツは/祁法はドイツ人自身が作る教育の指針はあくまでドイツ人自身が決めるという条件をつけたとのこと)。そして、支配者への安易な依存を未だに続けるならば、収奪されつくした末に我々はまた他の新しい支配者に従属しその支配を受けることにもなりかねない、と警告している。筆者は、新憲法がいかに素晴らしいものであるかという授業だったように記憶し、その後も基本的にはそのベース(現憲法の肯定)で生きてきたように思うので、石原説に従えば「洗脳」されていたことになる。
(2) は、1940年9月13日に海軍のトップ会議で大した議論もなく及川海相の「もうやることにしてはどうかね」の一言で、みんながうなずいておしまいになり、日独伊三国同盟参加が決まったと書いている。事実は、戦備を整えるための軍需資材や予算などで海軍を優先させることを、陸軍があっさりのんだゆえに、海軍は三国同盟に賛成した。つまり物資獲得のために海軍は精神を売ったのである。山本五十六聯合艦隊司令長官は1か月後に天を仰いで吐き棄てた。「実に言語道断だ。(中略)東京あたりは三度ぐらいまる焼けにされて、非常にみじめな目に会うだろう(後略)」と予言した。著者は「陸軍=泥臭くて悪い人、海軍=スマートで良い人」のイメージをもっていたので、この指摘にはショックを受けた(著者の高校生の頃の夢は外国航路の船長になることだったのだ)。
(3) は、日米開戦再検討のための大本営・政府連絡会議(「ハル・ノート」より1か月前)で、南方油田を占領することで戦争の継続は可能だとするデータが出されたが、その期待産油量に粉飾があったと述べている。自分の国が滅びるかもしれない事態なら正確なデータに依るべきだったであろう。これを現在に当てはめてみると、国家でなく陸軍の都合、海軍の都合と同じく、各省の都合、各党の都合、各派閥の都合、会社の都合、・自分の都合が優先されているのと同じ構図だ。
(4) は、サンフランシスコ平和条約締結時(1951年)に「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は放棄していない」と明確に宣言しておくべきだった、という主張。
(5) 険悪な雰囲気になりつつあった日米関係の局面打開を図る外交交渉は昭和16年4月に始まったが、その前に民間ルートによる根回しが行われていた。この民間ルートで交渉の前提になる日米諒解案が作成されたが、実はこの案はアメリカ側が諒解していたものではなく、交渉にあたったアメリカ側の二人の神父のトリックだったというもの。願望が事実にすり変わったもので、基点が曖昧な日米交渉はやがてハルノートで瓦解する。安易に願望を事実と思い込む日本人の気質をよく表した例だ。
(6) 「詔勅必謹(聖徳太子の十七条憲法の第三条)」は「詔を承けては必ず謹め(書下し文)」「天皇の詔勅が下ったなら、必ず謹んで承らねばならぬ(現代語訳)」のこと。田中氏は、本来「承る=拝聴する」の意味合いであったものを、日本人はいつの間にか忘れ去り「天皇の命を受けたら必ずそれに従え」と拡大解釈されたため本日の悲劇があると主張している。10月25日の衆議院の郵政改革特別委員会での氏の発言と内容は同一。天皇の詔勅は「終戦の詔勅」を以って途絶え、それ以降はマッカーサー、続いてアメリカの言うことが「天皇の詔勅」に取って代わった、そして日本は「歪な独立国」の道を歩み始めたというのが氏の主張。

広辞苑によると「承る」は (1) 謹んで受ける (2) 謹んで承諾する (3) 謹んで聞く。(4) 様子を聞く、伝聞する、を意味する。

「風が吹けば桶屋が儲かる」という理屈と同じように説得力は乏しい、というのが著者の感想。

「風が吹けば桶屋が儲かる」という理屈:これで笑って良いお年を。
(1)風で土埃が立つ
(2)土埃が目に入って、盲人が増える
(3)盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)
(4)三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
(5)ネコが減ればネズミが増える
(6)ネズミは桶をかじる
(7)桶の需要が増え、桶屋が儲かる
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