「聖書」シリーズは今回で64回を数えます。書き始めた動機は、それまで旧約聖書は「創世記」を除いてほとんど読んだことがなかったので、旧約聖書の中の有名な箇所を読みつつ聖書全体を自分なりに理解したかったことにあります。部分的には分かった積りになったところもありますが、やはり難しいというのが実感です。新約聖書の最後は「ヨハネの黙示録」で終わりますが、そこで取り扱われているのが「最後の審判」です。
「最後の審判」とは正式には「世の終わりに人類が神によって裁かれる」ことをいいます(「公審判」)。しかし、個人・個人も死ぬときに裁かれる「私審判」もあり、私たちは、どちらかというと、この方に関心があります。
「私審判」については、新約聖書の中の『コリントの信徒への手紙二』(使徒パウロと協力者テモテが書いたもの)の5章10節には、次のようにあります。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けなければならないからです。」
著者は小さい時、いつも祖母に「お天道さんは、いつも見ているよ」と言われたのを、よく覚えています。ですから、この『コリントの信徒への手紙二』も抵抗はありません。著者も地獄には行きたくはありません。しかし、困るのは、どうしたら地獄ではなく天国に行けるかのかの基準が示されていないことです(答えのないものの答えを考えるのは大変難しい)。「キリストの裁き」は「神の裁き」でしょうから、いつも「神が喜ぶ」であろうことをすればよいのであろうとは思います。
前にマグダラのマリアが「7つの悪霊」をイエスに追い出して貰ったことを書きましたが、一説によれば、この「7つの悪霊」は「驕慢、強欲、淫乱、激怒、嫉妬、大食、怠惰」ですので、このような行いをしておれば確実に地獄に行くと想像できます。しかし、悔い改めれば許して貰えるハズですので、神が本当に喜ぶのは、こんな消極的なことではないと考えます。
イエスは「愛」を説きました。ですから「人を愛する」ことを神は一番喜ぶハズです。「人を愛する」ことを意訳すれば「自分がして欲しいことを他人にせよ(Do for others what you want them to do for you.)」ということ、というのが著者の結論です。
「最後の審判」とは正式には「世の終わりに人類が神によって裁かれる」ことをいいます(「公審判」)。しかし、個人・個人も死ぬときに裁かれる「私審判」もあり、私たちは、どちらかというと、この方に関心があります。
「私審判」については、新約聖書の中の『コリントの信徒への手紙二』(使徒パウロと協力者テモテが書いたもの)の5章10節には、次のようにあります。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けなければならないからです。」
著者は小さい時、いつも祖母に「お天道さんは、いつも見ているよ」と言われたのを、よく覚えています。ですから、この『コリントの信徒への手紙二』も抵抗はありません。著者も地獄には行きたくはありません。しかし、困るのは、どうしたら地獄ではなく天国に行けるかのかの基準が示されていないことです(答えのないものの答えを考えるのは大変難しい)。「キリストの裁き」は「神の裁き」でしょうから、いつも「神が喜ぶ」であろうことをすればよいのであろうとは思います。
前にマグダラのマリアが「7つの悪霊」をイエスに追い出して貰ったことを書きましたが、一説によれば、この「7つの悪霊」は「驕慢、強欲、淫乱、激怒、嫉妬、大食、怠惰」ですので、このような行いをしておれば確実に地獄に行くと想像できます。しかし、悔い改めれば許して貰えるハズですので、神が本当に喜ぶのは、こんな消極的なことではないと考えます。
イエスは「愛」を説きました。ですから「人を愛する」ことを神は一番喜ぶハズです。「人を愛する」ことを意訳すれば「自分がして欲しいことを他人にせよ(Do for others what you want them to do for you.)」ということ、というのが著者の結論です。